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更新日:2012年6月1日

お歌ばあさん(猪名川町)

明治のころ、民田千軒〈たみだせんげん〉にお歌というおばあさんがいました。主人の正吉さんは、ちりめん呉服〈ごふく〉のあきないに出かけて、夜になっても帰ってきません。
「商品をねらうかけごと師〈し〉インチキにかかっているのではないだろうか…」と、お歌さんは心配しながら二人の幼い娘の添寝〈そいね〉をしていました。
昨夜からの雨は、ますます強くなり、滝〈たき〉のように家々におそいかかりました。お歌さんの家から道ひとつへだてたところを流れている大路次川〈おおろじがわ〉は、ゴウゴウと鳴り、しだいにその音が高くなっていくようでした。とつぜん川上から異様〈いよう〉な音が聞えてきました。


「危険〈きけん〉がせまった。」と感じたお歌さんは飛び起きて、二人の幼い子を脇〈わき〉にかかえ、必死〈ひっし〉になって裏山に登りました。
川上にあった水車小屋が流されたのでした。
ようすがわかると気丈夫なお歌さんは家にとって返えし、たたみ二枚を運び出し、あわせて立てかけて二人の娘を雨から守りぬきました。
水につかりかけていたタンスもかつぎだしました。タンスは総桐〈そうぎり〉だったので中まで水はしまず衣類は大丈夫でした。
ようやく雨が小降りになりました。

お歌さんは上の道端に、神戸からきたという関戸親分〈せきどおやぶん〉が異人館〈いじんかん〉を建て住んでいるので、そこへいくことにしました。途中、音やんお夏さん夫婦の店さきでカサを貸してくれるようにたのみましたが、被災者〈ひさいしゃ〉とみると貸してくれませんでした。
それからのち、お歌さん一家は万善〈まんぜん〉の吉祥鉱山〈きっしょうこうざん〉の社宅に移り、主人の正吉さんはコツコツと鉱石堀りを始めました。
勝気なお歌さんは、こんなことで満足しません。あれこれ苦労した末に、千軒の上手〈かみて〉に、こじんまりした茶店を開きました。

ここは大昔、源平一の谷合戦のとき、武将たちが通った間道と伝えられ、明治年間は西街道といって、丹波や能勢から池田・大阪さらに京都へ通ずる道ですので、旅人や行商人〈ぎょうしょうにん〉の往来〈おおらい〉がはげしく、赤い紐〈ひも〉で手甲〈てっこう〉・脚絆〈きゃはん〉、すそをからげた若い女の姿も見られたところですから、よい休み場所となりました。
昔から名高い池田炭を二・三俵〈びょう〉牛の背にくくりつけてのんびり通ったり、甘酒屋〈あまざけや〉が声をはずませて天秤棒〈てんびんぼう〉でかついで売りにきたのも風流〈ふうりゅう〉で、昔を偲〈しの〉ぶとなつかしいものだとお年よりのかたが話をしてくれました。
やがて、手引き車も通るようになり、この茶店は「鴬〈うぐいす〉の茶屋」といういきな名前をもらって盛んになりました。

「千軒〈せんげん〉」というのは一庫〈ひとくら〉(川西市)の出合いから民田〈たみだ〉(猪名川町)の口までの川ぞいの谷一帯をさしていうのです。
鉱山の栄えたころをしのぶ鉱山の代堀穴〈だいぼりあな〉や、落盤〈らくばん〉のため死んだといわれる「六人の墓」や「鷲〈わし〉の巣〈す〉」難所がたびたびの水害のため道を失ったので「龍化随道〈りゅうかずいどう〉」が完成されたのはそのまま残っています。この附近はいろいろのかたちの岩があり淵〈ふち〉となっていてとても景色の美しいところです。少し上流に「宮山」があって今は根石〈ねいし〉をとどめるだけですがその下手に「立〈たて〉つり」の銅穴〈どうけつ〉があります。当時ここは豊富に鉱石が出たそうですが、ある日猟〈りょう〉に出た人が獣〈けだもの〉と間違えられて鉄砲〈てっぽう〉でうたれたというので、この山は「たたり」があると恐れられて、それを祭った小さな「ほこら」があります。
それから、この茶店のあった裏山に、猫の彫刻〈ちょうこく〉のような猫石〈ねこいし〉があります。宮内省〈くないしょう〉のある人に、「もののふの岩、鴬茶屋」の短冊をもらったそうです。その岩が、なんと名宰相〈さいしょう〉だった角ひげの、濱口雄幸〈はまぐちゆうこう〉氏そっくりなものですから、ハイキングの連中は「濱口岩」と呼んでいます。

こうした伝説が多く、昔「千軒」(猪名川町)は、今わずか三軒の農家だけで、こんなところに人が住んでいるのかと首をかしげるほどの淋しい谷底の部落となりました。
近い将来、「一庫〈ひとくら〉ダム」に埋没〈まいぼつ〉する運命にあります。地下に眠るお歌ばあさんはそれを聞くとどんな気がするでしょうか…。

『平治物語』・『源平盛衰記』

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