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ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』阪神編 > 大井〈おおい〉の薬師〈やくし〉さん(猪名川町)―木喰〈もくじき〉上人の話―

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更新日:2012年10月22日

大井〈おおい〉の薬師〈やくし〉さん(猪名川町)―木喰〈もくじき〉上人の話―

阪急宝塚線の池田駅から猪名川〈いながわ〉の渓流〈けいりゅう〉にそって北へバスで約三十分「大井〈おおい〉」の停留所につきます。そこから五十メートルほど進むと左がわに東光寺の丘陵〈きゅうりょう〉があります。
新緑のカナメで縁〈ふち〉どった階段〈かいだん〉をのぼると、その左右一面に真赤に咲き乱れたサツキがみごとです。どこからか野鳥〈やちょう〉の鳴き声がし、山の香りが流れてきてたいへん静かであります。
のぼったところには、左がわに勢いよく育った三笠宮殿下お手植の松があります。そしてその数歩のところに、立木観音像〈たちきかんのんぞう〉の小さな祠〈ほこら〉があります。
正面の寺院三つのうち、中央が本堂で、左はしの薬師堂〈やくしどう〉には藤原期のものとおり紙づきの薬師如来〈やくしにょらい〉があり、その前に木喰上人〈もくじきしょうにん〉の作の仏像がずらりと安置〈あんち〉されています。お堂の裏の六地蔵〈じぞう〉や庭園内の室町時代の宝篋印塔〈ほうきょういんとう〉、本堂にある大江丸真筆〈しんぴつ〉など見るべきものがたくさんあります。
「北摂〈ほくせつ〉の秘宝〈ひほう〉をたずねて」の国体客がまいにち押しよせています。とくにここに安置されている珍らしい仏像と作者「木喰上人〈もくじきしょうにん〉」についてお話しましょう。

かわいい顔にほほ笑〈え〉みをたたえ、三日月型に、ほそめられた眼と眉〈まゆ〉の下に丸々と頬肉〈ほほにく〉をもりあげた地蔵菩薩〈じぞうぼさつ〉、ふしぎなほほ笑みを、ゆたかな黒髪〈くろかみ〉と髻〈もとどり〉につつんだ天女〈てんにょ〉のような薬師如来〈やくしにょらい〉、笑いたいのをがまんしながら、大きな目をむいて孫のいたずらをしかっている羅漢〈らかん〉さん、のみで荒けずりされた骨と筋に闘志〈とうし〉をみなぎらせて、着物を剥〈は〉ぎとった亡者〈もうじゃ〉をあざわらう葬頭河婆〈しょうつかばばあ〉、こうした仏像が、ずらりと十三体ならべてあるのにおどろきます。
おごそかなお祈りの対象としかおもわれない仏像の型をやぶった、まったく人を食〈く〉った木喰〈もくじき〉の仏さまであります。しかも、信仰も教えも、ましてやお説教はいっさいご免〈めん〉といった明るい単純な微笑〈びしょう〉の仏さまであります。
百姓さんや馬方、村娘やおかみさんが仮装〈かそう〉したような庶民〈しょみん〉の仏さまです。
それは拝まれる仏さまでなくて親しまれる仏さまで、頭や肩をたたいて声をかけたくなる仏さまであります。

上人の俗姓〈ぞくせい〉(坊さんになるまえの姓)は伊藤、享保〈きょうほう〉三年(一七一八)徳川八代将軍吉宗〈よしむね〉の時代、甲州〈こうしゅう〉(山梨県)西八代郡古関村〈こせきむら〉丸畑に生れました。上人は幼いときから非常にかしこく、おそらく多くの空想〈くうそう〉と憧憬〈あこがれ〉と、小さな胸に秘〈ひ〉められた苦しみと熱意〈ねつい〉とがなかったら、わずか十四才の少年が出奔〈しゅっぽん〉の決心をしなかったでありましょう。
ある日、野良〈のら〉へいくといっておいて、上人はひそかに父母の家を出ました。遠く江戸へ出るまでには多くの難儀〈なんぎ〉をなめたことでしょう。二十二才のとき、上人は道を求めて相州〈そうしゅう〉(神奈川県)大山不動奥の院石尊大権現〈せきそんだいごんげん〉にこもり、真言宗の大徳によって道を説かれ、ついにその門に入ることを決意しました。この一大転機〈てんき〉で七十年あまりの僧としての上人の生涯〈しょうがい〉がはじまったのです。
上人は木喰式〈もくじきしき〉を受けたのは四十五才のときでした。上人は九十才をこえて生きたのですから、木食すること実に五十年におよんでいて、晩年の筆跡〈ひっせき〉やその彫刻〈ちょうこく〉を見ると、いかに上人が健康であって精力家であるかがわかります。
上人は木食〈もくじき〉によって火でたいたり焼いたりする食物はさけ、肉食もとりませんでした。木の葉や木の実で足りていたのでしょう。ときには、米・麦・あわ・ソバ粉などを生のままとっていたようです。ソバ粉はとくに好きだったようです。上人は酒は飲んでいたようです。自分の像に大きなヒョウタンをそへて刻〈きざ〉んでいますし、酒の歌も残っています。それから上人はめだって入湯をよくしています。上人の養生法〈ようじょうほう〉だったといえましょう。

文化四年三月十六日から六月二十二日の間に、この猪名川の上流、上阿古谷〈かみあこたに〉、大井、万善〈まんぜん〉とまわって、約三十体の仏像を残しています。上人の長い遍歴〈へんれき〉については北は奥州〈おうしゅう〉から北海道、下って佐渡島に紀州を一周して、四国ついに九州まで旅をしています。それから山陰・山陽道をまわって東海道から故郷に帰っています。上人は九十三才でなくなりました。
どの仏像にも「日本千タイ、内作」とその背面に書き、それをはさんで右には「天下和順〈わじゅん〉」、「神通光明〈じんつうこうみょう〉」左には「日月清明〈じつげつせいめい〉」の文字があります。上人の署名〈しょめい〉は「明満仙人〈みょうまんせんにん〉九十万」とし、花押〈かおう〉(しょめい)をそえています。なお「加勢大工与清〈かせいだいくよせい〉」としてあるのはお手伝をした大工のようです。

東光寺から北へ一分たらずのところに、北摂〈ほくせつ〉一の景勝地〈けいしょうち〉屏風岩〈びょうぶいわ〉があります。古代から川にあらわれた絶壁〈ぜっぺき〉が淵〈ふち〉にのぞんでいて「摂津耶馬渓〈せっつやばけい〉」ともいわれています。「大井の薬師さん」を訪ねて、肩のこった人たちはこの景色を眺めてほっとすることでしょう。

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