• お問い合わせ
  • 文字サイズ・色合いの変更
  • サイトマップ
  • 携帯サイト

メニュー

ここから本文です。

更新日:2012年5月24日

中山寺(宝塚市)

その1:安産の神さま

観音さんを大へん信仰していた男がいました。暇さえあれば宝塚の中山観音に足をはこび、仏をおがんで、えつにいっていました。
ところが、男の妻は、たびたび出かける夫の行動をうたがわしく思うようになり、自分をきらって好きな人をつくっているのではないかと、ひがむようになりました。
男は妻に、わしは観音さまにお参りにいっているだけだと、いくらいっても妻は信用しようとはしません。これには男もほとほと手をやいて、なんとか身のあかしをたてようとしましたが、どうにもうまくいきませんでした。
あるとき、花見がてらに二人で中山寺にお参りしました。二人ならんで寺の本殿でお祈りしようとしたとき、急に風が吹いて二人のからだをさっとなぜました。すると、アッというまにぶらさがっている鐘の緒が、妻のからだに巻きついて、あれヨ、あれヨというまに妻は、宙ぶらりんになりましたからたまりません。妻は「助けてくれ!。」とわめき叫びましたが、夫はただ、オロオロするばかりで、どうすることもできません。まわりにいた人びとも、ワイワイとさわぎ立てるばかりでした。
さて、急を聞いて大へんえらい中山寺のお坊さんが、かけつけてきました。そして、おもむろにお祈りしましたので、やっと鐘の緒がほどけました。ようようの思いで、下におりることのできた妻は荒い息を静めていましたが、やがて、夫にひざまずいて、「あなたの信仰にとんだヤキモチをやいてすみませんでした。」とあやまりました。
それからは、夫婦の仲は大へんむつましくなったということです。
鐘はお参りしたことを御本尊に告げる合図で、鐘から下にさがっている布は安産・母子息災の守りとして知られています。
この夫婦のことが世間に伝わってからは、さらに有名になって、数百年以来“安産の帯”として伝わっています。

その2:五年がかりで一千体の仏

中山寺の観音さんは、国宝十一面観音菩薩で、インドでつくられた三国伝来の観音といわれ、女人済度(女の人をすくう)のためにつくられたといわれています。
むかし、山本村に坂上右衛門頼次という人がいました。その人は中山寺観音さまを信仰し、毎日参拝しておりました。
ある夜、聖徳太子の霊感を感じました。それは、「阿弥陀の像を一千体彫刻せよ。功徳無量である。」とのお告げでありました。そこで、五年がかりで一千体を完成して中山寺の太子堂へ寄進したと伝えられています。

(坂上文夫氏資料提供)

その3:星下り会式

八月九日に星下り会式があります。
八月九日の夜から十日の朝にかけて行なわれ、この日お参りする人は、境内をうずめるほどで、大へんなにぎわいであります。以前は近郷近在の者は、中山さんの星祭りといって、仕事を休んで参詣していました。
境内にはたくさんの屋台が出て、みやげ物や、おもちゃなどを売っていたし、昭和十年ごろまでは焼豆腐の「でんがく」を食べさす屋台がひときわ多くめだっておりました。
というのも、お参りの人は、この「でんがく」を食べると運がよくなるといって味わっていたものでした。
この日にお参りすると、四万六千日お参りしたと同じ功徳がえられると伝えられたものであります。

(坂上文夫氏資料提供)

その4:おしやりさん

中山寺には「おしやりさん」といって、身たけ約九十センチの神代杉でつくった、荒けずりの僧の座像が伝わっています。この像は、雨乞いのお祈りのときに用いられるもので、明治のはじめ、辰年のかんばつの時にききめがあったといわれています。どのようにするかというと、雨乞いのお祈りの時には、像に白粉をぬって本堂で祈念します。そのとき、像はいずれも水色のケサを着て、そのお祈りが終わると、足洗川の小橋、卜部左近の塚のあるところの川にこの像を浸けるのであります。
あるとき、寺の番人で、安兵衛という者が親子でたわむれ、この像の頭をコツコツとたたいたところ、さあ、大へん、たちまち北の空がまっ黒になって、大雨がドッと降ってきて川は大水となりました。
親子二人は姿を消して行方不明となりましたが、あくる日、この親子の死体がずっと下流で発見されたということです。

(坂上文夫氏資料提供)

その5:萩野の油返しの火

むかし、宝塚の萩野というところに部落がありました。
いつのころからか、この部落の墓の西にある観音橋のたもとに、夜更けになると怪しい火が現われるといううわさがながれました。部落の人びとはおそろしがって、夜はおろか、昼でもその近くには誰もたち寄ろうとはしなくなりました。それで部落の衆は、これは困ったことだと、寄り集まって相談した結果、うそかほんとか一度、ためしてみようということになり、部落のなかのとくに元気のよい若い衆の何人かがえらばれ、かたまっていくことになりました。
若い衆たちは、手に手に棒切れをもち、暮れて間もない観音橋のたもとにしゃがんで草むらにかくれ、じっと怪しい火の現れるのを待っておりました。さすがの元気ざかりの若い衆も夜の深まるにつれて、恐ろしさがくわわり、おたがいに歯の根をガチガチふるわせながら、それでも、じっとこらえて、ひそんでおったそうな。
やがて、いぬの刻(午後八時)も過ぎ、亥の刻(午後十時)を知らせる鐘の音がゴーン、とあたりを響かせていました。それと同時に何やらただならぬ冷気がスーとさしこんできました。“すわ!現われるぞ。”と息を殺してみつめていますと、観音橋の向こうがわのあたりに、ふってわいたようにふんわりと、提灯ほどのうすぼんやりした灯が現われました。そして、そのまま西へと野道にそって、ふわふわと上下左右にゆれ動きながら、ゆっくりと進んでいくではありませんか。若い衆たちは、背すじにべったりと冷たい汗をかきながら、それでもありったけの勇気をふるい起こして、そろそろと怪しい火の後を追っていきました。怪しい火はあいもかわらず、ふらふらとゆれ動きながら、さらにずんずん西へと向かい、やがて、中山寺の入口へとさしかかり、中山の極楽橋の近くまできて、ふっと消えてしまいました。それから、その後はいくら待っても、もう怪しい火は現われず、そのままあたりは白けていきました。
さあ、このことがあってから怪しい火の話はほんとうだというので、うわさは広まるばかりでした。何の火であろうかというので、人びとはそれをえてかってにつくりあげ、口々にもっともらしくのべ立て合っておりました。しかし、なかなか、ほんとうのわけがわからないまま時が過ぎていきました。

ところで、ずっと前からこの萩野の部落にたえずやってきて、油を売って歩く富松の長兵衛という油売りの行商人がおりました。信心の厚い部落の人びとはこの長兵衛から油を買っては、その油で仏への燈明をあげておりました。ところで、この長兵衛は根性の悪い者で、村の衆に売る油の量目をごまかしては、もうけを少しでもふやすという強欲な者でありました。
部落の衆も、量目のからいこの行商人をブツブツいってはおりましたが、今さしせまった油を売ってくれるほかの油売りもいないのでがまんしておりました。
ところが、いつということなく、その長兵衛がぷっつりとこなくなり、部落の衆も不思議に思っていましたが、どこかで死んだのだろうぐらいに思い、忘れてしまっていました。
話は、怪しい火のさわぎから大分たってからのことでありました。
だれいうともなく、こんな噂が立ちはじめました。あの怪しい火はじつは、油売りの長兵衛が油を灯もしている火だというのでありました。生前、長兵衛が強欲に人びとが仏に供えるために買う油をごまかして銭を貯えたため、死んだのちも魂が浮かばれず、ごまかした油を中山の観音さまへ返しにいく妄念の火だというのであります。

やがて、その話は、きっとほんとうだというようになって、今に語り伝えられています。

お問い合わせ

情報管理部広報係

電話番号:078-331-9962

ファクス番号:078-331-8022