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更新日:2012年6月1日
いまから三百八十年前のころのことです。豊臣秀吉〈とよとみひでよし〉の家来に山本荘司頼泰〈やまもとのしようのつかさよりやす〉という武士がいました。
この武士は、しばしば戦陣〈せんじん〉に加わり、かの朝鮮の役〈えき〉にも従軍〈じゅうぐん〉して戦功〈せんこう〉があった人なのです。
年をとってから、故郷の山本郷〈ごう〉(宝塚市山本)に隠居しました。この頼泰〈よりやす〉は、花や草木を友とするぐらいに、植物を愛していました。そして、一生けんめい研究もしていました。その研究が実をむすんで、今までに誰もしなかった接木〈つぎき〉を発明しました。接木法というのは、ある植物の一部を切って、他の別個の植物についで、新しい植物を作る方法でした。このつぎ木によって、品質を変える不思議なことができるようになりました。たとえば、モモやカキの木は種をまいて実がなるまで、何年もかかりました。その上に実が小さくておいしくありません。ところが、この接木法によって、実が早くでき大きいうえに味も大へんよいものができるようになりました。
昔から「モモ、クリ三年、カキ八年」のいい伝えをみごとに破った人であるといえるでしょう。
頼泰は、後に山本膳太夫〈ぜんだゆう〉と名を改めました。接木の名人として膳太夫の名が広く伝わって、とうとう豊臣秀吉の耳にも入りました。秀吉はあのような名将でありましたが、もとは農民でしたからでしょうか、園芸に趣味を持ち花を愛していました。山本村からたびたび花や盆栽〈ぼんさい〉などを献上〈けんじょう〉していたということです。膳太夫が接木〈つぎき〉に成功したことを知って大へん喜び、「木接太夫〈きつぎだゆう〉」という称号〈しょうごう〉をあたえました。
その当時は、大阪・京都間では、生活に必要な品物以外のぜいたく品の販売は、禁じられていましたが、秀吉のとくべつの思いやりで植木類の販売は許されていたというほどでした。
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