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ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』阪神編 > 三蔵山悲話〈みくらやまひわ〉(猪名川町)

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更新日:2012年9月24日

三蔵山悲話〈みくらやまひわ〉(猪名川町)

安土〈あづち〉時代のころ(今から約四百年前)近江国〈おうみのくに〉(滋賀県)坂本城主明智光秀〈あけちみつひで〉の前の奥方〈おくがた〉の娘に佐保姫〈さほひめ〉という方がありました。二才のとき母に死に別れ、後添〈のちぞ〉えの母が姫たちとはつねに気風があわなかったので、父光秀はどこかに別れて住まわすよう考えました。

光秀は若いとき、あちらこちらの国々を放浪〈ほうろう〉してあるいたとき、摂津国〈せっつのくに〉(兵庫県)多田の荘の北の方、六つの瀬〈せ〉(猪名川町)の里にある眺めのよい三蔵山〈みくらやま〉の古い城あとにいたことがあったのを思い出して、丹波の国(兵庫県)の知合いのせわで、ここに新しい家を建て、佐保姫と姫の祖母それに乳母〈うば〉たちを別れて住まわせました。歴史上では真鍋〈まなべ〉城といい、林田城ともいったことがあります。

ここは古い昔から戦争のない静かな楽園〈らくえん〉で、姫たちがかくれすむにはこのうえもないよいところでありました。姫は祖母や乳母たちと、春は花、夏は蛍〈ほたる〉秋は紅葉〈もみじ〉そして冬は雪の美しさの中でほんとうに楽しい日々を暮していたのです。ふもとの揚津〈やないず〉(猪名川町木津)の里の娘たちは、美しい姫を慕〈した〉って土地のものを土産〈みやげ〉として、ときどきこの館〈やかた〉をたずねるのでありました。

だが、戦国の世は、この静かな三蔵山におよばないわけにはいきませんでした。父光秀〈みつひで〉の主君織田信長〈おだのぶなが〉は、ついに都である京に上り天下に号令をする実権〈じっけん〉をにぎるため、丹波の国を攻めしたがえようとしました。そして、それを明智光秀に命じ攻撃〈こうげき〉させることにしました。
光秀は、三蔵山を世話してくれた旧交のえんの深い丹波路〈たんばじ〉へ攻めのぼることなどとうていできないのですが、信長のきびしい命令をことわるわけにもいかず悩〈なや〉みぬいたあげく、とうとう軍勢を進めることになりました。
亀岡〈かめおか〉の城(京都府)はその外の砦〈とりで〉とともに落ちましたが、八上〈やかみ〉城(多紀郡)主である波多野秀治〈はたのひではる〉はよくふせぎ守りまして、光秀の軍はどうすることもできません。
そこで光秀は、三蔵山にある義理〈ぎり〉の母を人質〈ひとじち〉として八上城に送って和睦〈わぼく〉を結んだのです。祖母とはなれ住む佐保姫〈さほひめ〉は心さびしくすごしていましたが、それも八上には姫の許婚〈いいなづけ〉の波多野貞行〈はたのさだゆき〉がおられることですから、さびしい中にも乳母〈うば〉や待女〈じじょ〉それにときどききてくれる里の娘たちにお琴〈こと〉などを教え、娘たちはお行儀作法〈ぎょうぎさほう〉を教えてもらえるので、親たちまでがよいお師匠〈ししょう〉さんといってよこしてくれるので、気をまぎらせて日々を送っていました。

こうしているうちに、信長の命令で八上城主をはじめ二、三の侍〈さむらい〉は安土〈あづち〉の城に上り信長にしたがうことを約束するはずでありましたが、その約束を破って信長は、これら八上の部将をきりすててしまいました。
このことを知った八上城では人質の光秀の母をきり、兵を安土に向かわせ一部の兵は三蔵山に攻めることにしました。
さあ、大へんです。
このとき、三蔵山は春らんまんの花ざかり、姫は里の娘たちとお琴〈こと〉を楽しんでいたのです。
とつぜん、はげしい剣〈けん〉げきの音が下から聞えてきました。何百という兵たちがどつと攻めのぼってきました。一瞬〈いっしゅん〉のうちにこの館〈やかた〉は血なまぐさい戦場となりました。
傷ついた鎧〈よろい〉の武士がどっと倒れます。首をうちとろうとする追手〈おって〉のさむらい。これを防ぐ味方の武士。まったく地獄〈じごく〉そのものです。
ふと見ると、ひとりの傷ついた部将が館〈やかた〉の中へかけこんできました。
その部将こそだれでありましょう。許婚〈いいなづけ〉の波多野貞行〈はたのさだゆき〉でした。
「おゝ佐保姫!」「貞行さま。」
乳母や侍女たちは傷の手当てをしようとしました。そこにすがりつき抱きあう二人。
総大将明智光秀〈あけちみつひで〉は、安土に伺侯〈しこう〉すれば旧領はそのままとの約束だのに首を落してしまい、その勢をかつて八上の城に雲霞〈うんか〉の如く攻めまくって来たのです。八上の怒りはその極に達して獅々奮迅〈ししふんじん〉の戦いをしましたが、すでに主将を失った悲しさ、たちまち城中は混乱〈こんらん〉に陥〈おちい〉り、さしもの難攻不落〈なんこうふらく〉の名城も涙をのんで落ちてしまいました。
その中で、貞行は今はこれまでと思い、腹〈はら〉かききって果〈は〉てようとしましたが、父のうらみをはたさなくてはならないと決心し、信長を滅すまで生きのびようと三蔵山までたどりつき、自分のもとどりを佐保姫に渡して別れをつげてかけ出してしまいました。

いま三蔵山にのぼりますと城あとらしい石があり、墓とおもわれるものもありますが、夏草がおい茂っていて何もありません。
だが、摂津〈せっつ〉の国は幕府の直領〈ちょくりょう〉(じかにおさめていたところ)であり、金銀銅を持っていて財力がありました。近くの銀山を保護しており、まわりには砦〈とりで〉を築き外からの侵入にそなえていました。三蔵山はその砦〈とりで〉のひとつであったといわれています。

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