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更新日:2012年6月1日

銀山―まつわる二話―(猪名川町)

猪名川〈いながわ〉町銀山は、わずか十四戸の農家が山と山にはさまれている静かな部落です。十数年まえまでは、中谷村銀山町といい、村であって“町”のつく所は全国的にも珍らしいといわれました。

この銀山は、奈良時代に東大寺の大仏をつくるとき銅〈どう〉を献上〈けんじょう〉したといわれる古い銀、銅の産地です。源氏、北条、豊臣、徳川の四代にわたって採鉱〈さいこう〉が続き、豊臣時代から徳川の中ごろにかけてが最盛期〈さいせいき〉で、天下をとった豊臣秀吉が、ここを重要な財源〈ざいげん〉としていたといわれています。

当時の戸数は三千戸、人口五千人あまりもあったといわれ、栄えた地であっただけに、いろんな話が残っているのです。

城壁〈じょうへき〉に竹の皮

むかし、銀山町近くの城山にお城がありました。多田源行綱〈ただみなもとのゆきつな〉が城主のとき、能勢地黄〈のせじおう〉城主との間に戦いが始まりました。
能勢〈のせ〉の手兵は、山下城(川西市)を攻め落とし、その勢いで、この城山を攻めたてました。ところが、どうしてか城壁に、よじ登ることができません。城壁には敵の侵入を防ぐために、よくすべる竹の皮が張りめぐらされていたからです。

能勢の兵も、これには困りはてました。攻めあぐんでいたところ、近くの人から、こっそり、よいことを聞いたのです。
「城へ入る間道〈かんどう〉があるよ。」というのです。
そこで、能勢の兵はこの間道づたいに城の裏から侵入して、敷きつめて〈しきつめて〉ある竹の皮を焼きはらって、味方の兵を誘い〈さそい〉入れたので、城山は、あえなく落城してしまいました。
城主行綱は、内通〈ないつう〉を怒り、悲しみました。そして味方の兵を嶽山〈だけやま〉の尾根づたいに落ちのびさせたあと、金の鶏〈にわとり〉の置物を抱いて、城中の井戸に身を投げました。
それから、毎年元旦にはその井戸のあとから鶏の鳴き声が聞えるといわれています。

“まぶ”哀話〈あいわ〉

銀山での豊臣秀吉の採鉱〈さいこう〉は、大がかりなもので、手がけた坑道〈こうどう〉は五十九か所。二十数年にわたり、七億二千三百万両〈りょう〉に相当するものを採鉱〈さいこう〉したといわれています。
ところで、そののちの鉱山を閉鎖〈へいさ〉するとき、とても悲しい話が残されているのです。
閉鎖するにあたって、まず労働者を立ちのかせ、労働に使っていた死刑囚〈しけいしゅう〉だけ残るように命じました。そして、いまの価値にして数兆円の金銀財宝〈ざいほう〉をこっそりと坑内〈こうない〉に埋蔵〈まいぞう〉させました。
それからがたいへんです。
死刑囚をそのまま坑道〈こうどう〉のなかに生き埋めにしたのです。おそらく秘密がもれるのを恐れたからでしょうか。

こんなことがあってから、この坑道を「死罪人〈しざいにん〉まぶ」(間歩〈まぶ〉、坑内のこと)死刑囚の働いていた坑内を「罪人〈ざいにん〉まぶ」と呼ぶようになりました。
そのころ、銀山には、お寺が三つありました。嶽山〈だけやま〉には陀華山観音寺〈だけさんかんのんじ〉があり、罪人はこのお寺で、この世の別れをさせてから処刑〈しょけい〉したとのことです。
寺のあったところは「牢が谷〈ろうがだに〉」と呼ばれ、この山の近くで炭焼きをすると、不思議に山火事が起きるとつたえられています。観音寺は、そののち山ひとつへだてた肝川〈きもがわ〉部落の陽泉寺〈ようせんじ〉に移されました。

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