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ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』淡路編 > 淡路人形浄瑠璃芝居〈じょうるりしばい〉(三原町市)

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更新日:2012年12月31日

淡路人形浄瑠璃芝居〈じょうるりしばい〉(三原町市)

今から四百年ほど前、西宮の神官が、ある日、舟で海に出ておりますと、海面に、一人の童子〈どうじ〉があらわれて、
「わたしは、水児〈みずご〉でございます。住む家がないので、ここの浜辺にお社〈やしろ〉を建てておまつり下さい。」といって消えてしまいました。
百太夫〈ひゃくだゆう〉は神のお告げとして、さっそく浜辺にお社〈やしろ〉を建て、戎〈えびす〉三郎殿としておまつりし、淡路の住人、道薫坊〈どうくんぼう〉という人が舞をまって、毎年、正月三日にお祭りをしていました。
それからは、西宮の浜辺では、ずっと豊漁〈ほうりょう〉がつづいたので、みんなは、戎〈えびす〉さんのご利益〈りやく〉といって喜んでいたそうです。
そうこうしている中に、道薫坊〈どうくんぼう〉がなくなりました。その頃から魚がとれなくなり、海の荒れることが多くなって、みんながこまりました。
そこで、百太夫〈ひゃくだゆう〉は、道薫坊〈どうくんぼう〉を形どった紙人形をつくってお祭りしましたところ、さしもの長くつづいた時化〈しけ〉もおさまり、お魚もたくさんとれるようになりました。
それを聞いた諸国の人々が、その人形のお祭りをさせてくれとたのんできましたので、百太夫〈ひゃくだゆう〉は諸所に出かけて、人形まつりをいたしますと、不思議に大漁になるのだそうです。
そこで、方々でたのまれて諸国をめぐっている内に淡路の三原町市・三条の地にとどまり、大御堂〈おおみどう〉という所に住んでいましたが、やがて菊太夫〈きくだゆう〉という人の入婿〈いりむこ〉となり、二人してこの芸術をみがき、ひろめました。
そのあと、文亀〈ぶんき〉元年(四百年ほど前)、引田源之丞〈ひきだげんのじょう〉が京都御所〈ごしょ〉の御節会〈おせちえ〉に召〈め〉されまして、三社神楽〈さんじゃかぐら〉の式をつとめたのに始まって天下に知られるようになりました。
引田〈ひきだ〉氏は、わが国人形芝居の始祖として朝廷から従四位下淡路椽〈あわじじよう〉に任ぜられて、「日本第一冠諸芸衆能〈かんしょげいしゅうのう〉」と称せられ、御陽成天皇(ごようぜいてんのう)に召〈め〉されて、天覧〈てんらん〉をかたじけのうしました。
慶長〈けいちょう〉の頃(一六〇〇年)、浄瑠璃〈じょうるり〉に合せて人形を操〈あやつ〉ることを始め、貞享〈ていきょう〉三年(一六八六年)、近松門左エ門〈ちかまつもんざえもん〉が竹本義太夫〈たけもとぎだゆう〉のために「出世景清〈しゅっせかげきよ〉」をつくって、竹本座で上演して、たいへん人気がありました。
このようにして、門左エ門〈もんざえもん〉が新浄瑠璃をつくり出してから、人形芝居の全盛時代をむかえました。
最盛期の江戸中頃には、市村に四十八座を数え、この芝居にたずさわる人は、男女合せて一千人にもなって、日本全国各地に広く移動興行したといわれています。
その後、明治の末ごろまでは、相当盛んに興行されていましたが、世の中の移り変りにしたがってしだいにおとろえ、現在、淡路島内では、市村六之丞〈いちむらろくのじょう〉、津名町志筑に淡路源之丞〈あわじげんのじょう〉、南淡町福良の淡路人形座〈にんぎょうざ〉の三座しかのこっておりません。
また、この淡路人形は、大阪の文楽〈ぶんらく〉の祖といわれ、文楽の写実的で、せんさいな感じはもたないが、きわめて粗野な舞台と古典、豊かな大きな人形をつかい、独特の味があります。
昭和三十三年四月には、ソビエトを訪問し、モスクワで大へん人気がありました。

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