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ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』淡路編 > 大猪と狩人忠太(洲本市上内膳)

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更新日:2012年6月1日

大猪と狩人忠太(洲本市上内膳)

今から千七十年も昔のことです。年号でいうと延喜〈えんぎ〉元年、醍醐〈だいご〉天皇という時代の話です。


その頃、播磨〈はりま〉の国(兵庫県の一部)に、藤原豊広〈ふじわらのとよひろ〉という人が住んでいました。毎日、弓矢を持って狩りにばかり出かけていたので、人々はその人のことを狩人〈かりゅうど〉の忠太〈ちゅうた〉と呼んでいました。

きょうも狩りに出かけた忠太は、たくさんの獲物〈えもの〉を肩にぶらさげて家へ帰っていく途中で、同じ仲間の狩人に出会いました。

「おい、忠太。この国の上野〈うえの〉の山奥に、大きな猪〈いのしし〉が出るちゅう話やが、お前聞いたか。」
「いや、知らんぞ。大猪〈おおいのしし〉やいうて、いったいどれほど大きいやつか。」
「なんでも、聞くところによると、身のたけ九メートルあまり、横幅でも三メートルほどあって、背中にはなんと笹がいっぱい生えとるという、とほうもなく大きなやつらしい。」

これを聞いた忠太は大喜び、仲間が心配するのもかまわずに、翌朝、早くから、上野の山奥さして出かけました。何しろ、こんな大きな猪が里へ下りて来て、田や畑を荒らしまわるものですから、その近くの人々は困りぬいていました。そして、この怪物のような大猪をいざさ王(為篠王=笹がいっぱい生えているという意味)と呼んでいました。


誰も恐れてよう近寄らない、そのいざさ王を忠太が退治に来てくれたというので、土地の人は大歓迎〈だいかんげい〉。さっそく、そこの人々が道案内に立って、猪の通る道へと忠太を連れて行きました。山を深く分け入ると、つたやかえでがいっぱいで、人の通る道などありません。疲れた忠太たちが、切り株に腰を下ろしてしばらく休んでいると、遠くの方で山鳴りのような音が聞えてきました。

「そら、出た。」「いざさ王だ。」
言うより早く、道案内の人々は逃げてしまいました。「さてこそ、ござんなれ。」(さあ、やってこい)と、忠太は矢筒〈やづつ〉から矢を抜き、弓につがえて待ちかまえました。

目の前に現われたいざさ王を見て、忠太はぎょうてんしました。木が生えたままの小山が動くみたいです。それでも、必死の覚悟で、弓をひきしぼり、猪ののどもとをねらって、ひょうと射ました。矢は少しそれましたが、いざさ王の胸元にぐさっとささりました。ところが、いざさ王は倒れません。そのまま、南の方へ向かって、どんどん駆け出します。「逃がしはせじ。」と忠太も後を追いかける。

猪は首がないので、まっすぐにしか走れないと言われています。だから、わきめもふらずに、まっしぐらに突き進むことを「猪突猛進〈ちょとつもうしん〉」と言いますが、まさにそのことばどおり。走りに走って海岸へ出ました。それでも止まらないで一直線に、海へざんぶと飛び込み、そのまま泳ぎつづけ、とうとう、あの広い播磨灘〈はりまなだ〉を泳ぎきって、淡路島の北淡町野島の、机の浦の鹿の瀬へたどりつきました。忠太も船に乗り、あくまでも後を追いかけます。

いざさ王はひるむ様子も見せず、さらに南へ駈けて、とうとう先山の頂上まで登って、そこで急に姿が見えなくなりました。さすがに疲れた忠太は、だいぶん遅れましたが、いざさ王の血の跡をたどって先山までやってきました。矢を射られた傷口から、血がたれていたのです。


頂上近くに、大きな古い杉の木があり、そこには大きな洞穴〈ほらあな〉があって、その前に、点々と血が落ちてたまっています。「ははあ、この中にかくれたな。」しめしめと思って、忠太がそうっと近づいてみると、洞穴の中の方が、あかあかと輝いています。弓矢をにぎりしめている手にも力が入らない。すうっと、誰かに引き寄せられるように奥へ入ってゆくと、これはふしぎ、大きな観音様〈かんのんさま〉がそこに立っていらっしゃる。忠太は思わず、その場にひれ伏してしまいました。

「どうしたことだろう。」こわごわ忠太が顔を上げてみると、高さ二メートルばかりの観音様で、人々を苦しみからお救いになるという手が、肩のあたりにいちめんについている。千手〈せんじゅ〉観音様といわれる仏様である。その胸元を見て、「あっ」と驚いた。忠太の射た矢が、つきささっているではないか。さすがの忠太も青くなった。人々をお救いになる仏様を、なんと弓で射るとは。

「ああ、これは、私が日頃、狩りをして、罪もない鳥やけだものを、毎日射殺すのをごらんになった観音様が、殺生〈せっしょう〉のいけないことを、身をもって私に教えてくださったのだ、私が悪かった。」

長い間の罪を、ひどくなげき悲しんだ忠太は、すぐに頭を丸めて出家〈しゅっけ〉し、名前も寂忍〈じゃくにん〉と改めて、観音様をおまつりするためにお寺を建て、その名を千光寺〈せんこうじ〉と名づけました。

やがて、忠太のこの珍らしい話が、都の天皇にまで伝わり、醍醐〈だいご〉天皇は、全国におことばを回され、その結果、大きな寺院が建てられました。これが、今の先山千光寺のはじまり(縁起〈えんぎ〉)なのです。


この話には、まだ少しつづきがあります。
というのは、播磨の国に残された忠太の家族のことです。大猪を追って淡路へ渡ったまま、帰ってこない忠太を心配した奥さんとその子が、忠太を尋ねて淡路へやってきます。今は僧となって、千光寺にこもっていることを知った母と子は、人に頼んで、一目、忠太に会おうとしますが、一心にお勤めをしている忠太は、会おうともしません。

現在の、中川原町まで尋ねて来ていた母と子は、忠太に会えないのをひどく悲しみ、子供の方はそばにあった石の上にあがり、先山の方に向かって背のびして、父の名を呼び、手足をすりながら泣きじゃくったので、その足もとの石がまっ二つに割れてしまいました。だから、今でもその土地が、「二つ石」という名で呼ばれているということなのです。

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