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ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』淡路編 > 沼島女郎物語(南淡町沼島)

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更新日:2012年11月12日

沼島女郎物語(南淡町沼島)

都に元弘の戦乱の起ったころ、西風がビュウビュウと強く吹きつける、ある日の朝。沼島のお水の浦に一そうの伝馬船〈てんません〉が漂着しました。
島の漁師がみつけて、船の中を見ると、気を失ったお姫さまと、一人の少年が乗っていました。お姫さまは、十二ひとえの着物をきた、それはそれは美しいお姫さまでした。
漁師は、さっそくお姫さまに水をふくませて気つけ薬とし、ご身体を清めるなど、かいほうして家につれもどって休養させました。お姫さまはだんだん元気になられました。そして、お元気になられると、大川の方角、王寺を仮の住まいとして滞在されることになりました。
このお姫さまは、後醍醐天皇の第一皇子、一の宮尊良親王のお妃で、ミヤスドコロといわれていたお方でした。
お姫さまは、尊良親王が土佐の畑村に流されましたので、その後をおって四国へ渡ろうと思い、家来の秦の武文をお供に、摂津の大物浦〈だいもつうら〉にこられました。ちょうど九州への便船として、松浦五郎の持ち船があったので、これに乗ってまず鳴門に渡ろうとされました。
ところが、松浦五郎は海賊でした。お供の秦の武文に酒をすすめて酔いつぶし、そのすきにミヤスドコロを船に乗せて出帆してしまいました。
秦の武文が気づいたときは後のまつり、大いに怒って後を追おうとしましたが、空は暗く船はなくついに主人を見失なって、じだんだふんだがどうすることもできません。恨みをのんで自決して果てました。

さて、ミヤスドコロを乗せた海賊船が、鳴門の瀬戸に近づくと、にわかに大渦が巻き起こり、船は木の葉のようにもまれて、今にも渦にまきこまれそうになりました、そして大渦の彼方に、秦の武文の亡霊があらわれました。海賊の頭梁〈とうりょう〉松浦五郎はびっくり仰天〈ぎょうてん〉、船に乗り合わせていた山伏に祈祷〈きとう〉させると、「ミヤスドコロを放さぬと、この船は助からない。」という。そこで、しかたなくミヤスドコロを伝馬船に移し、炊〈かし〉ぎの少年をつけて海に流しました。
その伝馬船が荒波を流れ流れて、沼島のお水の浦に流れついたわけです。

それから二年の年月が流れて、都の大乱もおさまり、ミヤスドコロは都へお帰りになることになりました。だが不思議なことに、海は毎日のように荒れて船を出すことができません。祈祷師に祈祷してもらい、「沼島の竜神がミヤスドコロとの別れを惜しみ、そのために海が荒れるのだ。」といいました。
そこで、ミヤスドコロは、懐紙〈かいし〉に醜い人の顔を書き「わたしはこのように醜い女です。」といって海に流しました。すると、ふしぎにもその紙は一匹の魚となって、海の中に消えてしまいました。やがて、海はおだやかになりミヤスドコロは無事京へお帰りになることができました。
この魚が、ムシマオコゼ、別名沼島女郎、又はカンガリになったとさ。
ミヤスドコロといっしょに漂着した少年は、後に京へ上り橋本修理の名を賜わり、子孫は今も沼島にあるといわれています。

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