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ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』淡路編 > 慶野松原と御所の松(西淡町松帆)

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更新日:2012年9月17日

慶野松原と御所の松(西淡町松帆)

西淡町松帆の西海岸には、景観〈けいかん〉のよい慶野〈けいの〉松原が南北二キロにわたって帯状〈おびじょう〉につづいている。
ここには、いろいろな伝説があり、藩政〈はんせい〉時代には慶野村と呼ばれ、近隣〈きんりん〉の古津路〈こうつろ〉にまたがる広大〈こうだい〉な砂丘地帯〈さきゅうちたい〉となっていた。そして「松帆の浦」とも呼ばれ、このあたりの砂は美しく、多くの歌人〈かじん〉や、作者不明の歌が詠〈よ〉まれ、文学に親しんだ人たちの遺跡〈いせき〉が多い。又、大昔から、弥生〈やよい〉文化の遺跡〈いせき〉は名高く、美しい緑の松は、数万本にのぼる。そして松の木の下で昼寝する気持は何とも言えない快〈こころよ〉さを味わうそうである。
このあたり一体は「御狩野〈みかりの〉」と呼ばれ、昔、淳仁〈じゅんにん〉天皇が狩をされたと伝えられている。

ある日のこと、天皇が、狩〈かり〉をしようとして、この地にやってきた。狩が目的であったが獲〈え〉物がない。しかたなくぶらぶらしていると「この松の美しさは狩の獲物よりもねうちがある。この下で昼寝〈ひるね〉をするだけで満足じゃないか。」とお供にすすめられ、きょうのごちそうはこの美しい景観〈けいかん〉だったと、狩のなかったことを少しも不満〈ふまん〉にされなかったと伝えられている。
こんなに美しく、上は天皇から下は庶民〈しょみん〉にいたるまで愛されてきた松原に、堂々とした貫〈かん〉ろくの松が一本ある。
この松をめぐって、いろいろな伝説がある。

昔は天皇や地方の豪族〈ごうぞく〉の争〈あらそ〉いがはげしく、大和〈やまと〉では世継〈よつ〉ぎの争いごとがたえなかった。
そこで天皇が安心して住居をかまえることのできる地としてこの地をえらばれたのではなかろうか。
松のみどりが平和をあらわすように、淡路にながされた天皇が、平和なくらしを望〈のぞ〉んだ。しかし、人目をしのんで静かに余世をおくるには、かくれ場所が必要である。天皇が流されてかくれ場とするにはこの広大な土地に松を植えてはどうか。この広いところではちょっとさがしにくかろうと思〈おぼ〉し召され、松を植え松の原とさせ、天皇の行在所〈あんざいしょ〉とされたらしい…。廃帝〈はいてい〉となった淳仁〈じゅんにん〉天皇自〈みずか〉ら、この松を植えられたのではなかろうかと伝えられている。
以後〈いご〉、この松を「御所〈ごしょ〉の松」とよんでいる。

また、松は潮風にあたると弱いとされている。しかし松原の松が数百年の風雪にたえているのは松の心にも、朝廷をまもるための霊〈れい〉がのこって、まもっているのではなかろうか。
慶野松原は、別の名を「松帆の浦」とも呼ばれている。万葉の時代は「飼飯〈けい〉の海」と呼ばれていたようである。近世になって、有名な井原西鶴〈さいかく〉が「名残の友」のなかで、
「景野〈けいの〉松原は数万本の木振り、ことごとく異風にして是〈これ〉都近くにあらば公家〈くげ〉の昼寝所〈ひるねどころ〉となるべきものなり」と詠〈よ〉んでいる。
明治以前の松原は特に広大〈こうだい〉で、今の県道西側から、さらに北浜、櫟田〈いちだ〉あたりまで松林がつづいていたそうである。
このように、今の松原と大分おもむきがちがっていた。

ある歌の中に、

飼飯〈けい〉の浦に寄する白波しくしくに
妹が姿は思ほゆるかも

と作者不明の万葉の時代からの歌があるくらいである。
また、銅鐸〈どうたく〉が集中的に発見〈はっけん〉されたり、石器〈せっき〉も出土していることから、いろいろな説があり、私たちの名勝〈しょう〉の地松原の保存が重要〈じゅうよう〉な問題となっている。この美しい松をいついつまでも守り、そして、播磨灘〈はりまなだ〉に沈む夕日の美しさ、海の中をひとすじ紅に染めてきらきら光りを落しながら一日の終りをつげる絶景〈ぜっけい〉を守っていきたいものである。

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