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更新日:2012年6月20日

お局塚(西淡町伊加利)

「このお墓へお参りすると、何でも思いごとがかなえられるんですって。」
春の高校入試を前にして、この地をたずねる学生や信者の姿がよくみられる。


寿永〈じゅえい〉の昔、一の谷の合戦があり、この戦いで敗れた平家の平通盛〈みちもり〉には、平家きっての美人といわれる夫人がいた。平家物語によれば、彼女は、藤原貴族〈きぞく〉の女で宮中でも評判の美人であったが、夫の戦死の悲しい報〈ほう〉をきいて、その後を慕って〈したって〉鳴門〈なると〉の海〈うみ〉に身を投じた〈とうじた〉のである。
あまりのできごとに、地元の人たちは、その遺体〈いたい〉を毎日のように探〈さが〉した。ある人は、
「もう、この遺体〈いたい〉は上らないのじゃないか。」
「いや、きっと潮の流れが浜にむいているから上る。」
夫人の遺体〈いたい〉をめぐって、水軍〈すいぐん〉たちは、いろいろと話がつきない。
瀬戸内海で戦うためには、「水軍を利用すれば戦いに勝〈か〉つ」といわれるくらい潮の流れをよく知っていたそうである。この美人の遺体〈いたい〉はやがて、丸山あたりの磯辺〈いそべ〉に打ち上げられた。
この地方の人たちは、今もそうであるが、昔から人情〈にんじょう〉に大変厚〈あつ〉い。
村人たちは、心から同情〈どうじょう〉し、舟形〈ふながた〉の塚〈つか〉を作ってその霊〈れい〉をなぐさめた。
その時、同時に戦死した六人の従者の墓もつくり、その霊〈れい〉をなぐさめたと伝えられている。
夫人の墓を小宰相〈おざいしょう〉の墓と呼び、六人の従者と合わせ七つの塚とも呼〈よ〉ばれている。

この伝説をめぐって、地元では、いろいろな民話となり、語る人それぞれ特有〈とくゆう〉の種をもって、興味〈きょうみ〉深く語りつがれ、現在にいたっている。その一端〈いったん〉をひろってみると、よくかくし芸〈かくしげい〉などで浄瑠璃〈じょうるり〉調で語るある老人は、「寿永三年三月十三日のま夜中、鳴門の北を、屋島に向け西進する一そうの大船が、突然〈とつぜん〉どうしたことか進行を止めた。」

三味線との音に合わせて、
「えい。」
「夜もねず船こぐかじ取りの一人が叫んだ。」
「タンタ…。」
「それもそのはず、ただ今…美しい女性の姿が見えない。」
「どうしたことかと調べてみるに、小宰相〈おざいしょう〉の姿が見えない。水練〈れん〉にたけた勇士たちまち十数人、海中にもぐりて…。」
三味線〈しゃみせん〉の音がたえない。
「話は六日前にさかのぼる。敦盛〈あつもり〉が直実〈なおざね〉にうたれし同じ二月七日の夜のこと…。」
越前三位〈さんみ〉通盛が弟の能登守教経〈のとのかみのりつね〉とともに、山の手の守りについていた大将軍〈しょうぐん〉であったが、敗退するうち、乱軍の中で内甲〈うちかぶと〉を射られ、弟教経と離れてしまい、今はこれまでと思い、静かなところで自害〈じがい〉しようと思い、死に場所を求めて落ちゆくところ、湊川の下で七騎〈き〉の源氏〈げんじ〉に取り囲まれて〈かこまれて〉討たれた。

この最愛の妻が小宰相で、二人の結婚の話についてもさまざまの言い伝えがある。
その一つに、
十六才にして通盛〈みちもり〉と激〈はげ〉しい恋におちいり、たがいに文才、恋文を書いて出しあったそうである。
この激しい恋が結ばれたところから、この局〈つぼね〉にお参りすると願いごとが成就〈じょうじゅ〉するのだとも伝えられている。恋愛に陥〈おちい〉り結婚〈けっこん〉できない事情〈じじょう〉にある人は二人でここを訪れると願いごとが叶えられるともいわれている。しかしくれぐれもここで心中だけはしないようにと…。
ある一せつには「投身するや直ちに舟にひき上げたるも、すでにこの世の人とてなく…。」
人々は悲しみ、名残り惜〈お〉しみつつ、残〈のこ〉された通盛〈みちもり〉の鎧〈よろい〉を身にまとわせてついに沈めたと伝えられている。

しかし土地の人は、数日後遺体〈いたい〉をひき上げたといわれ、このお局塚〈つぼねづか〉くらい話題〈わだい〉の多い伝説〈でんせつ〉は他に類〈るい〉をみない。
明治以前〈いぜん〉は、七つ塚〈づか〉と呼ばれたそうであるが、西淡線伊加利のバス停留所〈ていりゅうしょ〉には、
「お局塚口〈つぼねづかぐち〉」
とかかれた立札があり、春のシーズンたけなわになると、観光客〈かんこうきゃく〉にまじって願〈がん〉をこめにいく客も多い。

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