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更新日:2012年6月20日
北の山裾〈すそ〉に建ち列ぶ寺々の中で、一段と高い尾根〈おね〉にそれと知られるのが浄土真宗生宝山金藏寺で、境内の宝珠棟造りの鐘楼に掛けられた釣鐘には、その表面池ノ間と称する四面に珍らしい由来が銘刻してあるので貴重な存在であるといわれております。
その銘〈めい〉というのは、今から七百年余り前の文永四年に因幡国の最勝寺の什物〈じゅうもつ〉(宝物)として鋳造〈ちゅうぞう〉されたに始まり、
次ぎに永禄七年に但馬国東河庄(現朝来郡和田山町)の地藏堂に移され、更に天正二年に朝来郡桑市村(現朝来町)観音寺に、そして最後には生野銀山町金藏寺に納まったこの四度所を変えたことを現わすものであります。
ところで、この鐘が桑市村から金藏寺に納められたことについては、奇異ないわれがあったのでそれを書いてみましょう。
桑市村の観音寺というのは歴史の古い寺でありますが、昔ある年の大暴風雨に背後の山が崩れて、土砂と共に押し流されそのまま埋没してしまったのです。
そうして何年かの後に中興されたと伝えているのですが、この話しもそれ以後のことであります。
この村の農家に重兵衛という人がおりました。ある日いつものように野良に出て牛に鋤をひかせて田圃を耕しておりますと、鋤の刄先に何やら堅いものが当って前に進まいので、おかしいことだと思いながら手を変えてその廻りから堀り広げると、釣鐘らしいものが現われなおも堀り下げてみると、それはまぎれもなく釣鐘でありましたので、重兵衛さんはびっくりして家に戻り、早速このことを村役人たちに報告したので、村役人やその他の人たちも現場え行って調べた結果、この鐘は昔あった寺が大あらしで押しつぶれ、流れてこの田圃に埋っていたのであろうということで、とりあえず他の所え移そうということになりまして、寺の境内に仮小屋を作って安置したのであります。
ところが、その夜からこの鐘が鳴り出しまして、それが昼も夜も鳴り続け村人たちを驚かせるような不思議な現象が起ったのであります。それだけではなく、村の人たちの間にこの鐘を生野の金藏寺へ納めてくれいという夢見の話しが、甲から乙へ、乙から丙にといったぐあいで、わしも見た、わしは三日も続けて見たという人がふえて村中に伝播してゆくのでした。そこで庄屋は村の人たちを集め、一同を見廻しながらいいました。
「わしも夢を見た一人じゃが…何んとも不思議なことには村の誰れも彼れもがおんなじように夢を見るちゅうのは、これゃあただ事じゃあるまいな、知らん顔で放ったらかしておいたら後々どんなたたりがあるかも分らんぞ。
そこでじゃ皆の衆、これは夢のお告げに従うて生野銀山の金藏寺さんへ納めることにしてはどうじゃ、わしはそれが一番ええと思うが…みんなの思わくを聞かせてもらいたいがのー。」
この庄屋の提案には誰も反対するものはなく、評議は一決して鐘を金藏寺え納めることになったのですが、このことがあってからは以後鐘は鳴り止みました。
さて所が変って、金藏寺では住職がその夜、近いうちに桑市村から釣鐘が納められるという夢を見ていたのですが、心当りもなく半信半疑の中に気にも止めずに居りました。
それから間もないある日、桑市村の檀家総代三郎右衛門とその他三、四人の村人が金藏寺を訪れて来ました。そして住職に面会してこれまでの事情を詳しく語りました。
「そういうわけで、村一統も是非金藏寺さまへ納めてもらいたいと申しまして、異存のあるものは誰一人居りませんので早うこのことをお願い申したいと存じまして、こうしてわたくしどもで今日お伺いいたしました次第で、村一統からもよろしくお願いしてくれいと申しております。」といって皆頭を下げました。
これを聞きまして住職は膝を進めて「実はな、三郎右衛門さん、皆さん、拙憎〈せっそう〉も此間同じような夢を見ましたのじゃ。そのときは別にどういうわけであろうとは思いましたがな、そのまま気にも止めずに居りましたが、今の話を聞いてそれは正夢になりました。まるで符節を合わせたようじゃ。何んにしてもまことにありがたいことですわい。これもひとえに阿弥陀如来〈あみだにょらい〉さまのお引合せと申すものでござりましよう。」
と喜びを述べ、しばし冥黙〈めいもく〉合掌して念誦〈しょう〉するのでした。
日ならず鐘は金藏寺に無事納まり以来今日までその妙音の響は生野の町に流れ続いており、また、釣鐘を掘り出した所を“鐘つき田”というて今も桑市に残されております。
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