ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』但馬編 > 灘千軒流失の話(豊岡市)-灘の昔話三題-
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更新日:2012年6月20日
むかし、玄武洞駅と豊岡駅との間に灘〈なだ〉というにぎやかな町がありました。円山川の船着き場で、お金持ちがたくさんあって、りっぱな家や屋敷が並んでおりました。
ところが、ある年の大水に、それがすっかり流れて千軒もあった町が一軒も残らずなくなってしまったばかりか、そこが川すじになってしまったのです。今でも川の底に井戸のあとがいくつか残っているそうです。今の円山川の川すじは、この時の大水で出来たのであって、以前の川すじとは大分かわっています。
なぜそんなにかわったかと言いますと、この年は大変な大雪で、五月の半ば〈なかば〉ごろまで寒くて、雪が降りつもったそうです。ところが急にあたたかくなって、一時に雪どけがはじまりました。川いっぱいの大水に雪がどんどん流れていきます。そして雪があちらこちらでせがれて(止める)川すじが無茶苦茶になりました。あふれた水は、えんりょなしに新しい川すじをつくりました。
灘の町ばかりではありません。この年流された村はいくつあったかわかりません。玄武洞駅の川向こうに大蛇郷〈だいじゃごう〉という大きな村がありましたが、それもこの大水ですっかり流されてしまいました。
灘の町のあった所の後の山に「おなだもり」という木があって、その木の根元に金のにわとりが埋められており、時折りそれが金のひびくようなきれいな声で鳴くと言います。
物好きな欲ばりの人が、いろいろさがしてみましたが、今だに見つからないと言い伝えています。
また、こんな話もあります。
灘は、円山川沿いに栄えた商業の町ですから、お金持ちが多かったのです。それが一瞬のうちに流されてしまい、川底に埋まったのですから、その近くにはたくさんの小判が埋まっているということです。
ある時、百姓がたきぎを豊岡に売りに行くので、朝早く舟を出しましたが、あまり早すぎたので夜のあけるのを待つために、この灘の岸に舟をつないで、いねむりをしてしいました。すると、かさかさと音がして、二ひきのねずみが岸にでてきました。そして岸のまじかにつき出してあった舟のろに飛び移って舟の中へ入ってきました。その口には一枚ずつの金の小判をくわえております。どうするのかなと見ておりますと、あちらこちらをかぎまわったあとで、その小判を舟の中へおいて、さっさと岸へ帰っていきます。
百姓は、「ふしぎなこともあるものだ。」と思っているうちに、また二ひきとも、小判をくわえてきて舟に積みます。こうして何度も何度もくりかえしているうちに、たくさんのきらきら光る小判が持ちこまれました。百姓は、だまってそれを見ておりましたが、舟のろのはしが岸から少しはなれているので、ねずみがそれに飛び乗るのに大変苦労をしているようでしたから、百姓は「それをもっと岸に近づけてやったら、楽に飛び乗ることが出来、この仕事も早くできるだろう。」と考えて、ねずみのいないうちに、そっと岸に近づけてやりました。
ねずみは、同じように小判をくわえてきましたが、ふしぎそうにあちらこちらをかぎまわったあとで、今度は小判を舟に置かないで持って帰りました。そして、次に出て来た時は、何も持たないで、舟に乗って来て、さきに持って来た小判をくわえて持って帰りました。
百姓は、「こりゃ大変だ。」せっかく積んだものを持っていかれては、つまらない。早く舟を出そうと思って、立ち上ろうとしましたが、体がしびれて動けません。どんなにあせってみても、身動きができませんでした。
そして、すっかりねずみが小判を持って帰った頃に、夜が明けはじめ、金のにわとりが美しい声でしきりに鳴いたそうです。
次に、もうひとつ、こんな話も残っています。
灘千軒が流失した大水の時のことです。七日七晩雪が降り続き、やっと雪が止んだ〈やんだ〉と思うと、今度は七日七晩暴風雨が続いて、そのため、うず高く積っていた雪が一時にとけ、円山川が氾濫〈はんらん〉して大洪水となりました。その辺の家はひとたまりもなく押し流されてしまい、あたり一面、何一つ顔を出さない泥海となってしまいました。
その時、豊岡のおつねという女の人の家も流され、むしろ(わらで作った敷物)につかまって、円山川の濁流〈だくりゅう〉を日本海の方へ流されていきましたが、途中、港の一歩手前のあたりで、松のこずえが水面にわずかに出ていたので、それに取りすがり、恐ろしさにふるえておりました。
すると、ちょうどその辺の人が通りかかり、おつねのつかまっている松を見つけ、大洪水の中を舟に乗っておつねを助けてくれました。
幸い、おつねは死をまぬがれることができました。それ以後、この松を「助け松」(おつね松)と呼ぶようになり、今でも、この松は川の中の小さな島にはえています。
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