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ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』阪神編 > 幸寿丸〈こうじゅまる〉の身代〈みがわ〉わり(川西市)

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更新日:2012年12月17日

幸寿丸〈こうじゅまる〉の身代〈みがわ〉わり(川西市)

幸寿丸〈こうじゅまる〉は藤原仲光〈ふじわらなかみつ〉の一人むすこでした。その仲光は今から一千年ばかり前の武士〈ぶし〉で、そのころ摂津守〈せっつのかみ〉として多田〈ただ〉地方をおさめていた源満仲〈みなもとみつなか〉につかえた人であります。

ところで源満仲には、満正〈みつまさ〉・頼光〈らいこう〉・頼親〈よりちか〉・美丈丸〈びじょうまる〉・頼信〈よりのぶ〉と五人の子どもがいましたが、美丈丸〈びじょうまる〉だけは、武士にしませんでした。それは仏教〈ぶっきょう〉がさかんになったころでしたので、満仲は自分の子どものうち、一人だけはお坊さんにしたいと思っていたからであります。
そこで美丈丸を中山寺にあずけて勉強させることにしました。ところが美丈丸は、ほかの兄弟のように武士になりたくて、刀や弓のけいこばかりして、ろくろくお経〈きょう〉のけいこもしませんでした。
満仲は、美丈丸がお経のけいこをしないのは、お寺の人が美丈丸に気がねしてわがままを許〈ゆる〉しておくからであろうと思い、
「お弟子〈でし〉にさしあげたうえは、あなたの子と思い、こちらへの気がねはまったくご無用〈むよう〉、十分にしこんでいただきたい。」と申しいれました。
しかし、美丈丸のわがままは少しもなおりません。
「僧〈そう〉になるのは気に入らない。家で一大事〈いちだいじ〉がおこったときは、このようにふるまうぞ。」
といって刀をぬききって、いっしょにとまっている僧にとびかかろうとしました。みんなでひきとめましたが、このようすではどうにもしかたがないと、お寺から満仲〈みつなか〉に申しでがありました。

満仲は、すぐに家来〈けらい〉を中山寺につかわして美丈丸〈びじょうまる〉をつれもどし、家来の藤原仲光〈ふじわらのなかみつ〉の家にあずけておくことにしました。仲光の妻〈つま〉は、美丈丸がおさないころの乳母〈うば〉だったのです。
美丈丸のいたずらはますますひどくなり、美丈丸にきずをおわされ、そのために死んだ人もありましたが、だれもうったえようとしませんでした。満仲もとうとうおこり、
「美丈丸のあまりなふるまい、もう生かしておくわけにはまいらぬ。その方へたのむから美丈丸の首を切って持ってまいれ。」と、命〈めい〉じました。仲光は、
「おいかりはもっともではありますが、若君〈わかぎみ〉はまだおさなくておられます。もういちど、おいさめしたら、あやまちをあらためられるかもしれません。しばらく私におまかせください。」
と、かさねがさねたのみましたが、満仲は頭をふって、
「いやいや、いま親子の情〈じょう〉にひかされて、むすこのつみをばっしなかったならば国がみだれる。くどくどいわず早く美丈丸の首を持ってまいれ。」と、そのままおくの間に立ち去ってしまいました。

仲光はどうすることもできず、深くもの思いにしずんで家に帰りました。美丈丸は、仲光のただならぬ気色〈きしょく〉をみてとり、
「じいの顔色なんとなくすぐれぬが、気にかかることがあればくわしく申せ。」
と心配〈しんぱい〉そうにたずねました。仲光は、
「若さまのこと、私から父君におわび申し上げましたが、お許〈ゆる〉しがないばかりか、私めに首をうちとるようにおおせつかりました。しかし、いくら命令〈めいれい〉でも、どうして若さまに刀がくわえられましょう。こうなってはかみをそってご修行〈しゅぎょう〉あそばされ、しずかに父君のお許〈ゆる〉しの日をお待ち申し上げるほかはございますまい。いざご決心くださいますように。」と、一生けんめいにいさめました。
仲光〈なかみつ〉のことばに動かされた美丈丸〈びじょうまる〉は、
「じいの親切はよくわかる。今は決心がつきかねるが、きっとじいのいうとおりにするであろう。」と、なっとくしました。
そこで名の聞えた比叡山〈ひえいざん〉にいる源信僧都〈げんしんそうづ〉に、美丈丸をあずけてみっちり修行させることになりました。

それとも知らぬ満仲は、いっこうに美丈丸の首を持ってこないので、つかいを出し
「なにをぐずぐずしている。早くしなければほかの者にいいつけるぞ。」とさいそくしました。
このとき、美丈丸と同じ年の十五才になる仲光の子の幸寿丸〈こうじゅまる〉が、父の前に出て、
「このあいだからのごようすといい、今また若君のすがたの見えないのは・・・。」
とふしんがりました。仲光はあらたまって、くわしいことを話して聞かせました。
「父の身としてこういうことの切〈せつ〉なさは、じつに腸〈ちょう〉をちぎられる思いであるが、美丈丸の身代〈みが〉わりとして、この場でその方の一命〈いちめい〉を私にくれよ。若君のお首と申して殿〈との〉にさし出したい。」
と思いきっていいました。幸寿丸は、
「若君はご無事〈ぶじ〉でしたか、まずまず安心いたしました。さて、ただ今の父上ののぞみ、承知〈しょうち〉いたしました。わが身ひとつをさし上げて、それが父上への孝行〈こうこう〉となり、そのうえ殿〈との〉への忠義〈ちゅうぎ〉ともなれば、ひとつの命をもってふたつの道にしたがうことができます。」
そのけなげなことばを聞いた仲光〈なかみつ〉の両方の目から、あついなみだがあふれ落ちました。
幸寿丸〈こうじゅまる〉は、きっとおもてをあげ、
「ぐずぐずいたして私が心をみだしたなら、末代〈まつだい〉までのものわらい、ときがたてば、くいがのこるでござろう。ごめん!」
というなり、父の腰〈こし〉から刀をぬきとるや幸寿丸、左の腹〈はら〉につきたて右手のわきに引き切りました。仲光は、ようやくの思いでその首をかき落とし、たえ入るばかりになき入ったのであります。

そのことがあって何年かたち、満仲〈みつなか〉の子の満正〈みつまさ〉が死んだとき、比叡山〈ひえいざん〉の源信僧都〈げんしんそうづ〉は満仲にむかって、
「先年、美丈丸〈びじょうまる〉をうしなわれ、つづいて満正どのにわかれられ、おさっし申します。自分の弟子〈でし〉に源賢〈げんけん〉と申す大そうりっぱな僧〈そう〉がおりますが、お子の代〈か〉わりにおもらいくださるまいか。」といい出しました。
「承知〈しょうち〉した。さっそくこれへ源賢をつれてまいられよ。」と満仲は申しました。
仲光が一人のわかい僧をつれてまいりました。源賢がつつしんで頭を下げているすがたを、満仲つくづく見つめておりましたが、美丈丸のおもかげに少しもちがいありません。満仲は、幸寿丸をもって美丈丸の命〈いのち〉にかえたことを、そのときはじめて知りました。満仲の目からは、なみだがはらはらと落ちました。
あらためて仲光〈なかみつ〉を召〈め〉し出し
「ひさしく幸寿丸〈こうじゅまる〉を見なかったので、どうしたのかとその方にたずねると、あれからほどなく病死したとの答え、ふびんなことよとのみ思ってきたが、今こそいっさいがわかり、おさな心のけなげさ、義〈ぎ〉をもって命〈いのち〉を落としたとは、何と礼を申してよいのかわからぬ。このたびなくなった満正〈みつまさ〉の子、三才にして父にわかれて、みなしごも同じ、これをやしのうて、そちの一家をつがせるように。」と申し深く頭をさげました。
このお子には乳母〈うば〉をそえ、そのうえ多田の百町(約九十九ヘクタール)あまりの田地を仲光にあたえました。

源賢〈げんけん〉は僧〈そう〉としてその一生を終りましたが、自分の身代〈みが〉わりに死んでくれた幸寿丸〈こうじゅまる〉をとむらうため、多田の領地〈りょうち〉西畦野〈にしうねの〉に寺をたて、忠孝山小童寺〈ちゅうこうざんしょうどうじ〉と名づけました。
のちに、境内〈けいだい〉には、美丈丸〈びじょうまる〉・幸寿丸〈こうじゅまる〉・仲光〈なかみつ〉の三びょうがたてられたということであります。

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