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ホーム > 学校・授業の教材 > 郷土の民話 > 『郷土の民話』丹有編 > 大日堂〈だいにちどう〉の薬師如来〈やくしにょらい〉(三田市小野)

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更新日:2013年1月21日

大日堂〈だいにちどう〉の薬師如来〈やくしにょらい〉(三田市小野)

今から、千三百年も昔のことであります。
中大兄皇子〈なかのおおえのおおじ〉が、藤原鎌足〈かまたり〉らをつれて諸国〈しょこく〉をめぐられたことがあります。そのとき、この三田地方へもこられて、今でもあちこちにそのあとが残っています。藍本〈あいもと〉地方にも、鎌足塚〈かまたりづか〉とか皇子山〈みこやま〉とかいう地名があります。

中大兄皇子が、小野方面を視察〈しさつ〉したときに、土地の豪族〈ごうぞく〉黒川雄宇戸〈おうど〉のやしきに久しう宿〈とま〉られたことがありました。黒川雄宇戸には、苅姫〈かりひめ〉というかわいい娘がありましたが、皇子のお嫁さんになって玉のような男の子が生れました。名前を美宇和〈みうわ〉とつけたが、苅姫は産後〈さんご〉の日立〈ひだ〉ちがわるく、早くこの世を去りました。
中大兄皇子も、いつまでもこの草深〈ふか〉い田舎〈いなか〉に住居〈すまい〉しておるわけにもゆかず、都〈みやこ〉にかえられたが、そのしるしに一振〈ひとふり〉の短刀〈たんとう〉をあたえました。黒川雄宇戸は、早〈はや〉くこの子が大きくなったら、つれだって都にのぼるのをたのしみにしておりました。

しかし、それから一年たらずに美宇和王は、母御〈ははご〉の苅姫のあとを追ってこの世を去ってしまいました。
黒川雄宇戸は、かなしみのうちになきがらを、風呂〈ふろ〉が谷〈だに〉に葬〈ほうむ〉りました。
お墓のそばに一本の松の木を植えました。中大兄皇子からいただいた宝刀をまつって、美宇和神社を建てました。この社〈やしろ〉は、小野や乙原〈おちばら〉の人びとがたくさんお詣りしたが、江戸時代中頃に火事で焼けてしまいました。幸にご神体〈しんたい〉の宝刀は無事でありました。仮宮〈かりみや〉を建てて大宮〈おおみや〉といっていましたが、今は天満宮にまつられています。

中大兄皇子の時から、三百年たって花山法皇〈かざんほうおう〉が東光山菩堤寺〈とうこうざんぼだいじ〉におこしになったとき、このお墓と松に眼〈め〉をとどめられて、そのいわれをお問〈と〉いになりました。村人は、くわしく美宇和王の話をすると、法皇は涙をながして同情されました。自〈みずか〉ら大日如来像を彫〈ほ〉って、ここに大日如来堂をつくられました。
そしてねんごろに美宇和王の霊をなぐさめました。
その老松が、先年枯〈か〉れたのは惜しいことであります。
花山法皇が、山上の草庵〈いおり〉におすまいになってある秋霧〈あきぎり〉のふかい朝、山々はみな島々のようであり、霧〈きり〉はあたかも海のようであったから、「有馬富士ふもとの霧は海に似て波かときけば小野の松風」という歌をおよみになりました。この「小野の松風」というのは、大日堂の老松のことをおよみになったのだといわれています。

「この有馬富士」のうたは、西国三十三所の札所のうち、別格花山院〈かさのいん〉の歌としてひろく歌われています。

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