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■明石の史跡


明石の史跡

日本歴史学会会員
茨木 一成

 もくじ   1−10  11−20   21−30   31−40   41−50
      51−60  61−70   71−80   81−90   91−101


(91)鱏から蛸へ

 『あかし昔ばなし』(神戸新聞明石総局編/昭和58年刊)のなかに、「立石の井」という項目があり、そこには、次のような話が掲載されている。
 むかし、林の西の岸崎というところに、「おきさき」(天皇の正妻。皇后。中宮。妻后つまぎさき=広辞苑)が二人おられ、それを大蛸(足の長さが8〜12キロ)が拉致しようと、昼夜をとわず狙っていたという。それを退治したのが、二見の武士浮須三郎左衛門であった。かれは藤江の海に、蛸壺を沈めて、この大蛸を捕獲したものの、大暴れをして蛸壺から脱走。林神社の東の谷に追い詰めて、ものの見事にたたき切って、ときの天皇からご褒美をいただくのである。斬られた大蛸は石になり、やがてそこから清水が湧出して、酒造りに貢献する(同書83−4頁)
 大蛸は、日本海沿岸によく見られ、近世には、但馬にも牛馬をとる大蛸の存在が報告されており(刀斑勇太郎著『蛸』73頁)、瀬戸内における大蛸の話は、きわめてすくない。
 ところで、『明石記』(享保頃の成立=国書総目録1)をひもとくと、「岸崎=きさき」の項に、ほぼ同様の話しが記録されていた。ただ異なる点が一つあり、「おきさき」に的をしぼったのが、大蛸ならぬ、「鱏(えい)」であった。鱏は、春になると近海にその姿を見せ、内湾にあつまる。何よりも注意すべきは、その尾には、長い棘と数本の短い棘があり、刺されると、非常な痛苦をともなう(末広恭雄著『魚の博物辞典』116頁)。藤江の沖では、1メ−トル級のものも、珍しくはないと聞く。
 ある時期に、話の主役が、「鱏」から「蛸」へと変換したことは間違いない。手がかりの一つは、寛政9年(1797)初春に求板なった、『日本山海名物図会巻5』(日本名所図会全集)に、「章魚(たこ)」は「播州明石たこの名物也」とあるのに、目下のところ依拠したい。

 


(92)芭蕉と明石

                    蛸壺やはかなき夢を夏の月
 貞享5年(1688=9月30日に元禄元年と改元)4月20日、明石に足を伸ばした芭蕉が詠んだ句であることは、周知のところである。その意は、「明けやすい夏の月が照る海中で、朝になれば引き上げられる身とも知らず、蛸は蛸壺の中に短いはかない夢を結んでいることであろう」との由(「笈の小文」『日本古典文学大系46.63頁』)
 芭蕉は、明石からUタ−ンして、その日は須磨に宿泊する(元禄元年4月25日付惣七宛書簡、同書363頁)。なぜ急いで明石を後にしたのだろうか。
 芭蕉の各種の紀行文をひもとくに、彼の足跡は、関東・東北・北陸・東海・畿内に及んでいる。これらの地域は、幕府の勢力範囲なのである。明石(播磨)はまさにその西端に位置する。
 関が原の戦いは、豊臣恩顧の大名を率いて、家康は勝利した。しかしながら秀忠指揮下の、三万八千の徳川譜代の大名たちは、合戦当日に遅れること4日を記録する。その結果、備前より西には、外様の雄藩が顔をそろえることになった。
 芭蕉が、「おくのほそ道」の旅に出発した元禄2年は、春より災害が頻発していた。3月の4〜6日にかけて、下総国銚子から常陸鹿島、さらに陸奥国仙台領沿岸を大風雨が襲う(治家記録)。同月23日には、会津藩は、財政悪化のために社倉米籾1万俵の流用が決定(家世記録)。27日に芭蕉は江戸を出立する。災害等のニュ−スは、江戸に届いているはずである。俳人以外の姿を想像してしまう。
 現在の柿本神社に存在する上記の句碑は、旧姫路藩士松岡青蘿が、明和5年(1768)10月に建てたものである。ちなみにこの年は、芭蕉の没後七十五年忌に当たるという(兵庫県史4.367頁)

 


(93)日輪寺の鰐口

      神戸市西区玉津町小山に所在する普光山日輪寺(天台宗)に、鰐口が存在する。銘文は下記のとおりである(兵庫県史史料編中世4.606頁)
     (阿波国)
             奉懸名西庄新宮鰐口大願主源井内右京亮倫元   (銘帯右方)
         (梵字)
          
                                                                                 (銘帯左方)
 鰐口(わにぐち)は、「神社仏閣の軒先に懸けられ、前面に鉦(かね)の緒という布縄を垂らし、参詣人は、この緒を手にし振って鼓面を打ち、誓願成就を祈念する梵音具」といわれ
(国史大辞典14.932−3頁)、しかも、この鰐口は、阿波国名西庄新宮(現徳島県石井町新宮本宮両神社)に奉納されたものである。なぜ徳島県で製作・奉納されたものが、瀬戸内を越えて、神戸市西区の寺院に、存在するのだろうか。
   天分23年(1554)の冬頃より、阿波の三好勢がその姿を現すようになる。太山寺には、10月日付の豊前守(三好義賢)の禁制が存在するところからも、三好勢が明石郡内を席棬したようで、年があけてまもなく、三好長慶自身が明石に出陣し、太山寺に陣を構えた。明石氏は、籠城したままで、千戈を交えることなく、和議を懇望して事なきをえる
(細川両家記)。播磨守護赤松晴政の隠退後、その子義祐による守護家復興を名分とするものであった(兵庫県史3.279−80頁)
   寺には、天文年間(1532−55)三好勢の乱入による焼失、のちに有寛が堂宇を再建したとつたえる(明石記)。合戦には音具がつきものである。目的を達成(明石郡平定)した三好勢は、戦勝のひとつの証しとして、日輪寺に奉納して帰国したものではなかろうか。

 


(94)秀吉ゆかりの杉一十輪寺

 明石川の河口部より数えて三つ目(鉄道の橋梁は除外)の橋が嘉永橋である。もと永久橋とよばれていたこの橋は、文化8年(1811)、町民による修理架橋がなったもので、むろんそれ以前からも、この橋は、存在していた。架橋から43年後の安政元年(1854)、うちつづく地震により破壊されたという(『新明石の史跡』150頁)
 安政元年(1854)11月4日、いわゆる「安政東海地震」(M8.4)である。関東から畿内にかけて被害が及ぶ。ところがその32時間後(11月5日)、またもや大地震(M8.4)が発生。中部から九州にかけて、甚大な被害をもたらした。嘉永橋の倒壊はこれら地震によるものである(『理科年表』717頁)
 この橋を東から渡り終えた地点から、西へ150メ−トルの所に、十輸寺(真言宗=西新町1丁目)がある。残念ながら、昭和20年7月7日の明石空襲により、現在の姿になったという。門を入ってすぐの左側に、焼け焦げた「秀吉ゆかりの杉」の一部が現存する。もとは、高さ25メ−トルの大杉であった。寺伝では、秀吉が三木攻城時に、戦勝祈願にもとづく植樹という(『明石の寺宝』56頁)。秀吉とこの大杉を結びつけたものはなにか。その糸口は、寺の前を通過する道である。
 周知のように、十輸寺門前の道は、旧山陽道である。天正10年6月3日、備中高松の陣中にて、信長の訃報に接した秀吉は、毛利との和議をまとめるや、ただちに姫路に引き返すのが6日。いわゆる中国大返しである。9日未明、姫路を出発した秀吉軍は、昼ごろ明石に到着。叛旗をひるがえした洲本城(菅平右衛門尉)攻略のための軍勢を派遣する(兵庫県史3.722−3頁)。臨戦態勢という雰囲気のなかで、十輸寺としても、各種の接待に対応したものであろう。そのことが、「秀吉ゆかりの杉」という話に集約されて今日につながったものと思う。

 


(95)神社の湯立

 元禄6年(1693)の正月は、京都を中心に、大風雨・地震に見舞われた(遠藤元男著『近世生活史年表』)。夏を迎えた当明石地方は、日照りになやまされる。それが証拠は、5月24日に、垂水の日向大明神で雨乞いがおこなわれた。仲秋の7月24日には、岩屋大明神・稲爪大明神において、雨乞いが同時に実施されたことは、深刻な旱魃の被害が予想されたことにほかならない(『累年覚書集要』16頁。以下に出典を明記しない場合は同書による)
 その効果はというと、大蔵谷稲爪神社の場合、元禄8年(1695)から同12年(1699)まで、正月の9日に行われているところからも、成果のほどがうかがえよう。さらに元禄15年(1702)には、「嘉例之通」とあって、稲爪大明神の湯立は、年頭の重要な行事に位置づけられている(同書31頁)
 雨乞いは、「湯立」という神事を媒介とするものである。その湯立なるものは、「神前で大きな釜に湯を沸かし、巫女が神がかりとなって笹の葉をその湯にひたしてまくのをいう」もので(国史大辞典14.308頁)、これは中世社会での神意における裁判方式の一種、とされる「湯起請」(ゆぎしょう)の最初の段階である、釜の湯を沸騰させる儀式であった。「湯起請」とは、訴訟当事者が、熱湯の入った釜の中の石を素手で取り(実際には、取手なるものが存在する)、手の損傷の有無によって真偽を判断する(同書295頁)
 近世に確認できる稲爪神社の湯立は、おそらく中世以来のものであったろう。大蔵谷は山陽道の宿場町として、賑わいをみせた。各種の方言がとびかい、風俗・習慣の違いがトラブルになる。ほとんどは民事(みんじ=私法によって律せられる私人の間の生活関係に関する事柄=日本語表現辞典)にかかわるものであったろう。稲爪神社の神判は不可欠なものと推測する。
 幕藩体制下では、司法権は藩の手中にあり、「湯起請」のなかの「湯立」という部分のみが、神事として継承されたのであろう。

 


 (96)播州明石の天守米

井原西鶴の『好色一代女』巻四(岩波文庫)の「栄耀願男(えようねがひのおとこ)」のなかに、泉州堺の錦町と中浜通の間に住む、ある隠居は「朝夕も、余所は皆、赤米なれども、此方は、播州の天守米、味噌も入り次第、聟殿が酒屋にてとる」(同書144−5頁)とある。わざわざ「播州の天守米」と強調しているところをみれば、相当にレベルの高い米であったのだろう。
 ここにいう天守米とは、「城の天守にたくわえておく米。城米。転じて、上等の米」(広辞苑)を指すようだ。
 元禄5年(1692)9月の自序を持つ『本朝食鑑』(ほんちょうしょくかがみ)によれば、
  「米は五畿・濃尾の産が、我が国第一である。そのうえ土が肥沃豊饒で、他国はと
  ても及ばない。近江・紀勢(紀州・勢州)・播州・四国・中国・九州のがこれに次ぐ」
とあって(同書T、46頁)、それほどに高い評価とはいえない。
 ところが、大坂島の内の木綿問屋に生まれた、浜松歌国が編纂した『筆拍子』(ふでびょうし=19世紀初)には、大坂の米市場での諸国の「天守米」評判を次のように書きとめている(同書巻10/新燕石十種3.491頁)
  大極上 播州明石天守米、同龍野天守米、
  極 上  播州姫路天守米、
  上 々  播州明石米、
 他を寄せ付けない、播州米の人気を、おしはかることができよう。
 今日、市内の農家の「米の作付面積(平成17年)」をみるに、
  ヒノヒカリ(142ha)・キヌヒカリ(118ha)・あきた小町(69ha)・コシヒカリ(25ha)
の順位であり(『あかしの農水産』8頁)、播州米の健在を知るのである。

 


 (97)新年の贈り物

天文8年(1539)正月、明石与四郎(祐行)は、本願寺証如にたいし、太刀1腰と、鵝目(眼=ががん)を贈っている(「証如上人書札案」『石山本願寺日記下』57頁)
 証如の返書に、嘉兆(めでたいきざし)という文字が見えるのは、当時の播磨の状況を勘案すれば、字句どおりに、すなおにはうけとれない。
 前年(天文7)の11月にはじまる、尼子詮久(あきひさ)の播磨侵攻は、在地に大きな衝撃を与えた。まず置塩山の守護赤松政村は、さしたる抵抗もせず、ひとまず高砂(梶原駿河守)に移動。各所の国人衆も個別に対応する。なかでも明石氏は御着の小寺氏とともに、尼子氏に通じて、高砂に出兵したために、赤松政村は、淡路に脱出という事態になり、播磨は混乱する。
 年があけて、播磨の政情が、一時的に小康状態になったものの、4月8日、脱出先(郡家の田村能登守の館)より、細川持隆の後援を受けた守護赤松政村は、岩屋より渡海。人丸山(現在の明石城本丸跡)に布陣。明石与四郎(祐行)は、戦意を喪失して、降服という事態をむかえる(『兵庫県史3』269−70頁)
 このような狭間で、新年を迎えた明石氏は、「新年の贈り物」という行為にふみきったのである。贈り物の内容で興味を覚えるのは、「鵝目(眼)」がみえることである。文安3年(1446)、真言僧行誉(ぎょうよ)の編になる事典(壒嚢鈔=あいのうしょう)によれば、鵝目(眼)とは「銭」のことで(「塵添じんてん壒嚢鈔」『大日本仏教全書』150.250頁)、数量的には不明とはいえ、それ相応の価値を読み取りたい。
 当地方は、陸の大動脈(山陽道)と明石の津という良港をかかえ、人と物の流れの盛んなることは、十分に予測され、物流を媒介するものは、銭貨であり、上記の「新年の贈り物」とは、こうした状況を反映したものではなかろうか。

 


 (98)シーボルトの真意

文政9年(1826)1月9日(太陰暦)、江戸に向かうために、出島の商館長に従って、長崎を出発したシーボルトは、2月2日、午後9時に加古川に到着。翌3日、午前6時に加古川を出発。途中、土山村の近くで景色を楽しみ、午後には明石に到着している。以下は、明石に関するシーボルトの叙述である。
 2時ころ明石につく。かなり大きい町で、藩主松平左兵衛督(MatsudairaSakioje−no−ske)の城下である。その他の点でも秩序や規律の見られない取るに足りない土地である。われわれは海岸に沿って旅をつづけ、前方南南西に淡路島を見る。島と本土との間の海峡は日本の一里(約四キロ)の幅で、航行に適する充分の深さがあるとみえて、日本の船がほうぼうに行き交うのが見えた。舞子の浜で素敵な海の景色にみとれ、その近くで航海用のコンパスによって若干の観測を行なった。(シーボルト著『江戸参府紀行』〔東洋文庫〕151頁)
注目したいのは 、明石という城下町にたいして、彼は、「秩序や規律の見られない取るに足りない土地である」といいきっていることである。
 姫路・曽根・高砂・加古川といった地域に関しては、彼は、医師であり、博物学者らしい鋭い観察眼でもって、叙述が進められているだけに、なぜ明石は、「取るに足りない土地」なのか。
 この前年(文政8年)の2月、幕府は、異国船打払令を発令。我が国の沿海に接近する外国船には、無差別砲撃を命じたもので、無二念打払令ともいわれる(『国史大辞典』1.485頁)。海峡の町明石としては、何らかの対応を強いられていたのではなかろうか。明石の町を通過して、舞子の浜で、「素敵な海の景色にみとれ」ていたシーボルトの真意は、なんであったろうか。われわれの課題でもある。

 


 (99)西江井村の馬田

『明石記』(享保年間)の「西江井村」(中世では魚住荘=現在は、大久保町江井島)の綱目に、次のような記事がある(便宜、句点をいれた)。
       馬田  此所昔馬ヲ葬埋タリ、其気残リケルニヤ、此所ニテ倒タル者、三年而
            死ト云伝、適転タル者、其下ニ敷タル方ノ片袖ヲ引切テ、此所ニ置帰
            レハ、災ヲ除ト云、此−沼田ニシテ、茅薄生、蛭多住ト云
 その大意は、享保の頃、西江井村に所在する馬田(現在地は、目下の所不詳)というのは、昔、馬を埋葬した場所であったために、たまたまそこで倒れたものは、3年して死去するとの言い伝えがある。たまたま、転んだ者は、地面に接した方の片袖を引きちぎって、その場に放置して帰るならば、「死」という災難からのがれることができる。ところがこの場所(馬田)は、沼田となって、茅や薄が群生しており、蛭が多く住みついているという。住人にとっては、あまり接近したくない場所であったのだろう。
 西江井村といえば、江井島港(中世では魚住泊)があり、秀吉の播磨入国以前から、諸商品の陸揚げとともに、市が立ち、人馬にて三木へ送っていたことが知られる。ことに、別所長治の三木籠城後は、毛利輝元よりの兵糧搬送の取次ぎに、繁多をきわめたことがしられる(卜部昌行氏所蔵文書)
 三木開城の直前、天正8年(1580)の1月8日夜、秀吉は、魚住城(大久保町西島)を攻撃し、打撃を与える(「反町文書」『兵庫県史史料編中世9』363頁)。当地は、人馬ともに大きな被害を被ったであろう。
 それから1世紀以上も経過した当時(享保頃)、過去の不幸な出来事を、「馬田」として、記録にとどめたのではなかろうか。

 


 (100)入牢

寛政元年(1789)の夏の頃であろうか。明石の城下では、複数の商人が、身柄を拘束され、大坂の牢舎に送られるという、異常な事態が発生した。
 対象となったのは、神出屋(明石町)と米屋であった。いったい彼等はなにをしでかしたのだろうか。彼等の犯した罪は、竹の大量(具体的な数量は不詳)窃盗であった(『累年覚書集要』169頁)。大坂での入牢(じゅろう)とは、容易ならざることで、おそらく発注者が大坂在住の商人であったため、取り調べの必要上、身柄の送付になったのであろう。
 大量窃盗のひきがねとなった背景には、竹(建築用材や生活道具)の大量需要が存在するはずである。
 それは天明8年(1788)1月。応仁の乱以来という京都大火(内裏・二条城ほか、公家・武家邸宅65宇、社寺あわせて1,148余。民家は183,000余をふくむ、三分の二が焼失)であろう。
 その被害が、いかに大きく、復興がはかどらなかったことは、同閏6月には、朝鮮使節の来朝延期を要請したことでも、理解できよう(『近世生活史年表』251頁)。彼等(神出屋と米屋)は、明石藩内のいずれの地域から、竹を無断で調達したのであろうか。
 享保頃の藩内の村数は192か村。明石郡は141村(新田は16村)。三木郡は51村である。竹薮の記載方法をみるに、屋敷周辺のものが圧倒的に多数を占める。これは窃盗の対象にはなりにくい。それらを除外した在来村のベスト五は、神出田井村(28所)・西脇村(27所)・清水新田村(19所)・上津橋島村(15所)・印路村(12所)。新田村関係では北古新田村(47所)・竜ケ岡村(45所)・赤坂村(37所)・南古新田村(33所)・天ケ岡村(25所)という順になり、神出台地を中心に、不正に調達した地域がみえてくるのである(『明石記』)。中心人物の一人に、神出屋の屋号がみえるのも、納得できよう。

 


 (101)火防観世音

『あかし昔ばなし』(神戸新聞明石総局編)に、「火防観世音(かぼうかんぜおん)」と題する話が、掲載されている(同書149−50頁)。それは、法船寺から観音寺へという、寺名の改称に関する話である。
 現在の、明石市二見町東二見に所在する観音寺(山号を補陀山、臨済宗妙心寺派)は、以前は、法船寺と称していた。ところが、天正9年(1581)5月の火災により焼失する。ところが、行基作と伝える観世音菩薩を安置した観音堂は無事であった。
 文禄2年(1593)には、地元の有力者である横河重陳(しげのぶ)が再建。寺名を観音寺と改めた。それから197年を経過した寛政2年(1790)、東二見村の大火によるも、奇跡的に、観音堂は無事であった。2度にわたる大火を免れた観音堂にたいし、人々は、火防観世音とよんで尊敬を集めたという。
 当寺には、嘉吉2年(1442)5月吉日の紀年を持つ、棟札が存在する。知る人ぞ知る棟札で、明石市内で現存する最古のものである(棟札の全文については、拙稿「中世の泊と松江」『戦乱に揺れた明石』254−5頁参照)
 堂社再建の中心的役割を果たした人物は、小川正辰である。正辰の存在は、現時点においては未確認とはいえ、赤松円心以来の守護代の家柄である。前年、嘉吉の乱で、赤松宗家は滅んだとはいえ、二見地方にも、勢力が及んでいたことを実感する。
 さらにこの棟札には、「浦陀山観音寺」と明記されており、文禄2年に、法船寺を観音寺と改名したという「昔ばなし」は、信ずるに足りない。ただ、横河邸(現在は公園)と観音寺は、隣接しており、有力檀越の存在が、「昔ばなし」に反映したことは間違いないところである。その背景には、政治の仕組みの変化(封建的身分の固定)を忘れてはならないだろう。

 

                   日本歴史学会会員     茨木 一成




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