| ■明石の史跡 |
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明石の史跡
日本歴史学会会員
茨木 一成
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(81)悪行
天文8年(1539)6月29日、守護赤松政村(のち晴政)は、加東市東条町の有力者である飯尾源三郎にたいし、明石修理亮(宗阿)の悪行成敗につき、忠節を求めている(飯尾文書/兵庫県史史料編中世2.142頁)。
悪行とは、いうまでもなく「悪い行い」(日本語表現辞典)で、守護の立場からすれば、相反する政治行動を示したことを指すものであろう。では、明石宗阿の政治行動とは、どのようなものであったのか。
天文7年(1538)11月5日、出雲の尼子詮久(あきひさ)は、播磨に侵攻した。複数の国人衆が尼子に服属したため、本城(置塩城=姫路市夢前町)に留守居のみ置いて、守護(赤松政村)みずから高砂の梶原氏のもとに移動して、対策を講じようとしたところ、小寺氏(御着城)や明石宗阿(明石城)は、尼子氏に通じて、高砂表への出兵を意図したため、守護(赤松政村)は、高砂より淡路に向けて、海路移動して、郡家の田村能登守のもとに落ち着く。
年があけて天文8年(1539)4月8日、阿波の守護(細川持隆)の援助のもと、岩屋より渡海して明石に上陸。明石城を包囲した。戦意を失った明石氏は、降伏。守護(赤松政村)は、そのまま三木城に入った(赤松記/群書類従21.367頁/兵庫県史3.270頁)。
一旦は、赦された明石氏。しかしその2ヶ月後、守護より上記の「悪行」成敗の文書が出されたのである。何が許せなかったのか、不詳としかいいえない。
侵攻する尼子勢にたいし、播磨最大の規模を誇った置塩城を擁しながら(『播磨置塩城跡発掘調査報告書』120頁)、なんら組織的な抵抗もせず、放棄しなければならなかったところに、守護としての存在が、あらためて問題になるのである。
(82)義士の話
師走をむかえると、われわれ播州人は、歳末定例の行事(たとえば忘年会など)の日取りを決定するときに、「討ち入りの前にしますか、または後に-------」というような会話を、なんらの疑念も持たずに、思わず発してしまう。
先般(10月頃と記憶している)、神戸新聞紙上に、赤穂市上仮屋の市立歴史博物館において、忠臣蔵を題材とする郷土人形150点あまりを、各地より集めて、展示されていたことを紹介する記事に接したことは、記憶にあたらしい。
そういえば、この夏(平成18年)にも、JR赤穂駅のロビ−周辺を舞台に、地元の劇団の有志が集まり、忠臣蔵のハイライトである討ち入り場面を再現しており、赤穂を訪れた観光客に、その熱演ぶりが紹介されていたことを思い出す。
400年という歳月を経過したにもかかわらず、いまなお、われわれに強烈なインパクトを与え続けている。当時、事件の舞台である江戸のみならず、人々の受けた衝撃なるものは、想像をこえるものがあったと思われる。
元禄14年(1701)10月25日、家督を直常に譲った明石藩八代藩主松平直明は、その1年後の復讐劇(12月15日)を耳にしたある日、「内匠殿(浅野長矩)は、よき士をたくさん持たれた」とそれとなく語る。近侍していた家臣は、恥ずかしいという表情をうかべながらも、その行動を褒めたたえた。すかさず直明公は、「汝等は、そのような事は、できないだろうと思う」とおっしゃった。姓名は伝わらないその側近の士は、大いに赤面し、全身に汗をかいていたという(「東播秘談」『講座明石城史』532頁)。はたして、われわれは、この近侍の家臣を批判できるだろうか。義士の行動には、第三者的には、純粋に評価するも、当事者として受け止めた場合には、複雑なものがある。赤面した側近の士の立場も、理解できないことはない。
(83)職務権限の心得
明石藩第八代藩主松平直明公の治世のあるとき、姫路の「ふち人」(扶持米を受給している者、つまり藩士)が、女を連れて山陽道を東へ逃走する。「女」とあるから、おそらく他人の保護下にある女性、つまり同僚の妻女であったろうか。しかし明石川をこえたところで、追手に追いつめられ、西本町の南側の空家に立て籠もった。周辺は野次馬などで、大騒ぎとなったであろう。たまたま通り合わせた服部源次右衛門なるものが、追手の侍を制して、自分が召し捕らえるといいながら、空家に入り、大いに叱責をした。その結果、藩士が屈服し、源次右衛門に身柄を拘束されたという。
一件落着の後、大慈公(松平直明)は、このたびの処置(偶然に現場に居合わせた)は、見事なものであった。しかしながら、このようなケ−スは、それぞれの担当分野の人たちが、対応するのであるから、今後は、こうした事情を理解すべきであると諭した。要するに、職務権限(職務を執行する権限)を逸脱しないようにということである(「東播秘談」『講座明石城史』553頁)。
元禄15年(1702)、大久保半右衛門(忠賀=ただしげ、500石)の下女が、駆け落ちしたため、半右衛門は追跡する。追い詰められた下女は、中嶋孫兵衛(盛忠=500石)の屋敷に駆け込んだ。式台(玄関先の一段低くなった板敷き=日本語表現辞典)にあがって、駆け込んだ下女の引渡しを要求するも、取次ぎからは拒否された。そこで主である孫兵衛に家捜しも辞さないと、強硬に申し入れたものの、孫兵衛からも相手(武力に訴える)になるといわれ、引き下がらざるをえなかった(『元禄世間咄風聞集』岩波文庫297−8頁)。
江戸での事例からも、上記の姫路藩士は、駆け込み先の選択ミスをしたようである。
(84)拳うち
拳(こぶし)とは、「五指を折りまげてにぎり固めた手先」の称で、にぎりこぶし、げんこつ、などといわれる。<日本語表現辞典
天正10年(1582)頃、武田氏を滅ぼした家康は、凱旋の帰途、安倍川のほとりで、大きな釜(直径4尺・深さ3尺7寸)に遭遇。これを浜松城に運ぼうとしたところ、本多作左衛門重次が、鉄槌で持って破壊したことは、鬼作左の面目を発揮した話としてつたえられている(磯田道史著『殿様の通信簿』228−9頁)。それから一世紀余の後、明石藩には、鉄槌ならぬ、拳でもつて釘打ちした藩士が存在した。
明石藩士伊藤五郎右衛門は、その姿は人並みはずれてたくましく、その心も強い人物であった。ある時、大慈公(八代藩主松平直明)は松竹堂に入って、掛け物を壁にかけようとして、釘を打ちつけようとしたところ、鉄槌(鉄製の大形のかなづち)を持ち合わせてなく、侍臣に、金槌に代わるものとして、石やあれこれを命ずるうちに、五郎右衛門がかかわりあうことになり、握った拳でもって、釘を打ち出した。なにさま相手は、鉄製の釘ゆえ、当然のことながら、拳の皮は裂け、流血の事態となる。委細かまわず掛け物をかけるための釘打ちを続行。このような性格の男なので、大慈公の思し召しもよかった。
ただ、この五郎右衛門には、次のような後日談が残されている。「釘打ち」ののち、元禄16年(1703)6月晦日朝、大慈公が野原に出かけようとして、二の丸御殿の玄関口へ回ったところ、お供の五郎右衛門が、草鞋をはいているのを確認した。つぎの瞬間、その背後から、名乗りをあげた森幸之丞(児小姓)に切りつけられ、落命。原因は、男色(なんしょく)にからむトラブルであったという(「東播秘談」『講座明石城史』533頁)。
(85)播州二見の蛸
年が改まると、いささか旧聞の部類に属するかもしれないけれども、平成18年(2006)9月26日(火)付の『朝日新聞』の朝刊によれば、市内硯町のマンション建設予定地内の工事現場(JR明石駅の西約1・5キロ)から、その数200個以上のイイダコ壷の出土(8世紀頃の地層)が報じられていた。200個を越える数量は、これまでの市内の遺跡からは、見られなかったという。しかも未使用であって、形状(高さ約15センチ、直径約7センチ)は最近まで使用されていたイイダコ壷と、ほぼ同型。現場はおそらく生産地か、保管に関する設備の存在が、指摘されているのは、首肯できよう。
近世の記録(『重修本草綱目啓蒙』30)によれば、京師(京都)の市場に到来する蛸(イイダコ)は、すべて播州二見浦で獲れたもので、兵庫(神戸市)を中継して、送られたという(『古事類苑動物部』1549頁)。当時の京都市民からすれば、商店の棚に並べられた蛸は、すべて二見の蛸であって、ある種ブランド的要素をもったのかも知れない。
漁獲法は、長縄に長瓦壺(たこつぼ)のなかに、紅帛片(もみのきれ)または、熟した番椒(とうがらし=唐辛子)を入れたものを、数個連綴して、海底に沈めたときは、必ず蛸壺に入るという。陸に引き上げてもなかなか出てこない。そこで壷の底をツメで掻くと、皆走り出て捕獲されることが紹介されている(同書1549頁)。
『大和本草13』は、但馬の大蛸を、『日本山海名産図会四』には、牛馬をも食らうという滑川(越中富山)のものなど、日本海方面における大蛸の存在が、記録されている(同書1549・51頁)。穏やかな瀬戸内とは、対照的な話でもある。
(86)林神社の修造
延喜5年(905)8月、醍醐天皇の命により、延喜式の編纂が始まる。紆余曲折があったものの、延長5年(927)12月26日、完成をみる(国史大辞典2.389頁)。その神名帳の部分に、林神社(明石市宮の上)の名をみることができる(兵庫県史史料編古代2.626頁)。神名帳に記載された神社は、神祇官より一定の幣帛(神に奉献する物の総称=広辞苑)が奉献され、社格の高さをみることができる。
『明石市史上』所収の「明石市史年表」をひもとくに、延喜7年(907)3月3日、林神社を修造したという記事がある(林神社伝記)。修造というのは、「(建築物などを)つくろい直すこと」で、ある程度の規模の作事が考えられる。
修造の原因は、災害が考えられる。この年(延喜6年)、淡路の神社は、大風・大雨により、多大の被害をこうむったことが、報告されている(「政事要略」『兵庫史史料編古代1』11−2頁)。つねに淡路を眺望することのできる立地条件の林神社も、災害から逃れることはできなかったろう。
しかも年来、播磨国は疲弊がはなはだしく、復興がおぼつかない。追い討ちをかけるように、この年の5月28日には、旱気に直面している(『扶桑略記裡書』『新訂増補国史大系』12.185頁)。そのような時期に「修造」が可能であったということは、有力者の存在が想定されよう。
「修造」の前年(延喜6年)の5月23日、朝廷は、播磨国明石郡大領赤石貞根の貢献(私穀5000斛の献上)に授位(外従五位下)をおこなっている(同書)。大領とは郡司の最高位であり、その財力たるや、刮目(かつもく)に価する。有力者(赤石貞根)の存在を抜きにしては、林神社の「修造」も不可能であったろう。
(87)明石津合戦
中世の明石を舞台にした合戦のなかで、もっとも著名なのが、嘉吉の乱(嘉吉元年=1441)である。将軍義教を殺害した播磨守護の赤松満祐追討軍の明石乱入であるといわれる。追討軍の指揮官(細川持常)が発布した感状(かんじょう=合戦に参加した将士の戦功を賞する文書=岩波日本史辞典)をみれば、蟹坂(和坂)・人丸塚(現在の明石城の本丸附近)が主戦場になっていることがわかる(拙稿「中世の泊と松江」『戦乱に揺れた明石』247−8頁。以下とくに出典を明記しない場合は同書による)。
あれから7年を経過した文安5年(1448)の8月、淡路国の三沢小次郎朝経は、妙勝寺(淡路市東浦町)に田1段を寄進する。これには、毎月の晦日、一族集まって、法華経の寿量品の一品(一章)の読誦が義務づけられていた。朝経をしてこのような寄進行為にかりたてたものは、3年前の父義円の死である。彼が討死した場所こそは明石津であった(「妙勝寺文書」『兵庫県史史料編中世1.523−4頁』)。
日々に強まる新守護山名の圧力。赤松満政(則祐の孫)は、教康(満祐の子)とともに、隠遁という理由で、将軍家の許可なく、播磨に下国するのが、文安元年(1444)の10月25日の夜であった。翌11月28日、追討軍(山名持豊)が但馬にむけて出京。12月20日の但馬口合戦で、播州動乱が始まる。
文安2年(1445)2月晦日、明石津を舞台に激戦が展開される。明石の経済の支柱である「津」(明石川河口部)は、大きな影響を受ける。合戦の2か月半の後、明石船籍の船が、ひさびさに兵庫に姿を現す。この間、2キロ西の松江船籍の船の兵庫入港は、7回を数えることからも、合戦の被害のほどが、推し量られよう。
(88)能大夫・野口政之進
明石藩第9代藩主(松平直常)の頃の話である。彼の在任期間は、「明石の歴代城主一覧」によれば、元禄14年(1701)10月25日から、寛保3年(1743)2月20日である(『講座明石城史』582頁)。ということは、江戸時代の3大飢饉の一つ、享保の大飢饉(享保17年)を経験しているはずである。話は、大飢饉の2年前(享保15年=1730)にさかのぼる。
その夏、旱害(ひでりで水が欠乏して起こる農作物などの災害。ひでりの害=広辞苑。)の徴候があらわれた。藩の対策の切り札は、一つの面(能)であった。野口政之進は、田中村(神戸市西区玉津町)の八幡宮に派遣され、この面をつけて舞ったところ、7日にして洪水が起こった。つまり効果があったという(田井功氏所蔵『東播秘談』、以下、特に出典を明示しない場合は、同書による)。
問題の面は、昔、越前に山藤四郎という能大夫が所蔵していた。ところが貧困のために、越前屋専右衛門のもとに入質する。ところが霊力のあるこの面を所持したところ、家内震動するなどの奇怪な事件が発生。恐ろしくなった越前屋は、これを本主(山藤四郎)に返還を考えたものの、絶家となっており、時の越前の領主に進上した。あるとき、旱害に悩まされた越前国は、この面により大雨を招き、ひでりを免れた。
『皇都午睡』(こうとごすい)によれば、室町期において、赤鶴吉成(越前大野住)や、暦応4年(1341)に歿したといわれる福来政友(越前一乗住)などが、面作者として知られている(『広文庫19』114頁)。
8代藩主直明は、明石入部時に、これを持参したと考えられ、普段は艮(こん=うしとらの方角)の櫓に収め、大目付の管理下においたという。
天正3年(1575)6月、明石地方の炎天を回避するために、岩屋の社殿において、天台宗の僧侶たちが、祈雨に励み、降雨をみた(「太山寺文書」)。あれから155年。能大夫が主役の座についたのである。
(89)一休禅師の人丸塚詣
壮年(血気盛んな年ごろ。働き盛りの年齢の者=広辞苑)の頃、一休禅師(ぜんじ=禅宗では、高僧をあがめる敬称/中村元著『仏教語大辞典下.854頁』)は、思い立つことがあったのか、京より山陽道をくだって、播磨の国をめざしたことが伝えられている。途中、摂播国境に近い一の谷(神戸市須磨区)にいたり、源平の運命をわけた古戦場をしのび、追悼の言葉を手向け、当地に一両日足を留め、その附近を残らず見て回ったという。
見学に時間を費やしたのか、日没がせまったために、途中で野宿となる。夜が明けて明石の人丸塚(現在の明石城本丸附近に所在)に参詣。懐から料紙(和紙)と絵具を取り出して、人丸の顔を描き、それに人丸を讃えた自賛(画中の漢詩)を入れ、塚に納めた。
その後、この人丸の画像が納められた宝蔵は、戦乱のために、「野伏あぶれもの」などの乱入により、その所在については不詳である(「塵塚物語1」『改定史籍集覧10』16−7頁)。
中世(室町時代)、人丸塚の西南西2・5キロ(直線)には、大徳寺領林崎荘が存在した。応仁の乱後、長享2年(1488)以前のある時期に、播磨を回復した山名政豊(宗全の孫)に、大徳寺から入国祝(青銅300疋)がおくられた事実からも(拙稿「中世の泊と松江」『戦乱に揺れた明石』259頁)、一休禅師に象徴される大徳寺僧の明石入部の意味を、うかがうことができよう。
一休禅師の入寂は、文明3年(1481)11月21日。塵塚物語(ちりづかものがたり)の成立時期は、天文21年(1552)との由(国史大辞典9.676頁)、その差71年の隔たりがあるとはいえ、期待したくなるような話でもある。
(90)人丸社の開帳
最近、田井功氏(明石市天文町)所蔵の文書を披見する機会を得て、調査したところ、「元和戊午四年明石町割扣帳」と題する史料があり、そのなかに、宝永8年(1711→4月25日正徳元)、正月18日より3月18日までの60日間、人丸社での開帳が実施されていた事実を知る。
「宝永」といえば、5代将軍綱吉政権の36年という長期治世の最末期にあたり、天災地変が続発した時期でもある。なかでも、宝永4年(1707)10月4日の大地震(M8.4で、わが国最大級の地震の一つ、震害は東海道・伊勢湾・紀伊半島で最もひどく、死者2万、潰家6万、流出家2万といわれる(『理科年表』709頁)は、当明石地方にも多大の被害をもたらした。三木郡大庄屋安福令茂(はるしげ)は、「明石表別而大破損」と記録している(『累年覚書集要』42頁)。人丸社も無傷ではすまなかったであろう。
松平直常(明石藩9代藩主)は、2年の歳月をかけて、社屋の修補に尽力。人丸社の再興をみたのが、宝永6年(1709)7月吉日であった(「棟札写」『兵庫県神社誌中』206頁)。明石城下から、丑寅(東北)の方角に存在する人丸社。それが整備された姿は、まさに明石復興のシンボルマ−ク的存在であったろう。
ところが、翌7年夏は前年につづいての旱魃。三木郡では猪害に悩まされ、威し鉄砲の保持を新規に願いあげ、聞き届けられている(『累年覚書集要』56頁、おそらく明石郡でも同様な事態を推察する)。 あけて8年春からの人丸社の開帳が始まる。開扉された人麻呂の木像に、人々は、平穏な年を祈願したことであろう。しかし、冬11月には、姫路大地震があり(遠藤元男著『近世生活史年表』157頁)、天災からの不安を、ぬぐいきれなかったのではなかろうか。
日本歴史学会会員 茨木 一成
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