| ■明石の史跡 |
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明石の史跡
日本歴史学会会員
茨木 一成
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(71)四つの供養塔
『新明石の史跡』(平成9年7月刊)をひもとけば、近世という時代に、供養塔を一つではなく、四箇所も造立された人物(明石藩第7代藩主松平信之)が存在するのを知る。その所在地は、下記の通りである(以下、とくに出典を明記しない場合は、前掲書による)。
@漆山(神戸市西区伊川谷町有瀬)
A若宮神社(明石市林2丁目)
B住吉神社(明石市大久保町森田)
C神明神社(明石市魚住町清水)
供養というのは、{三宝(仏・法・僧)または死者の霊に供物を捧げること。追善供養・施餓鬼供養・開眼供養などさまざまな種類がある}との由(広辞苑)。この場合は、藩主松平信之の生前の業績にたいするものと理解すべきで、その対象となったものは、何であるのか。
@は、寛文11年(1671)に開削された伊川谷掘割(約5・6キロ)の完成である。これによって当地域も恩恵に浴した。
Aは、船上村に池田輝政以来、課税されていた水主米(かこまい=領主の軍事的必要に応じて徴発された雑税)の免除。
Bは、寛文6年(1666)頃に完成したといわれる、新田開発。
Cは、新田開発によって成立した新村に、期間限定の加役免除を認める。
被支配層にとって、「お上」に望むことは、安定した日々の生活の維持のために、ささやかな所得の増加(新田開発)と、免税(減税)である。四箇所の特定地域を対象にしたものとはいえ、住民が、前藩主松平信之の訃報を耳にし、その業績にたいする報謝を、供養塔という形にしたのである。供養塔の造立を耳にした、当時の藩主の感想を聞いてみたいものである。
(72)血判
血判とは、「(古くケツバンとも)
神文しんもん・誓詞などに、背かない意を示すため、指先から血を出して署名の下に押したもの(広辞苑)」をさす。将軍の代替りごとに、諸大名は老中の役宅において、血判誓紙を提出する(「要筐弁志2」『古事類苑政治部3』301頁)。採血の方法は、おそらく小刀で、男は左の薬指、女は右の薬指を傷つけて採血した(「書札抜要集」同書人部2.351頁)。
再度の代替わりを経験した、肥前平戸藩主の松浦静山(まつらせいざん)は、小刀の使用は不都合があったのか、大きな針でもって、血判にのぞんだという。ただし、万一にそなえて、膏薬を懐中にしのばせていたという(甲子夜話6)。経験者にしても、いささか緊張(あざやかな血判のために)を余儀なくされたようである。
この行為を代替り最初の「宗門改」(しゅうもんあらため)において、村政の責任者にたいして実施した人物が存在する。
第7代明石藩主本多政利は、入部した翌延宝7年(1680)4月、領内の庄屋にあてて、宗門改を実施するための通達を出した。通達を手にした三木郡小川組大庄屋安福武重は、その文面を見て驚いた。5歳以上の男女の記載は例年通り、しかし人丸大明神への起請文に血判が求められたことである(三木市郷土史の会編『累年覚書集要』8−9頁)。これまでに、このようなこと(血判)はなかったので、記録したものと思われる。
採血の方法は、おそらく小刀で、男は左の薬指、女は右の薬指を傷をつけて採血したとされる(「書札抜要集」同書人部2.351頁)。
城内の建物のなかで、「ウリ坊」を飼育していた藩主(本多政利)だけに、型破りな面もうなずけよう。農村では、左手の薬指に包帯を巻きつけ、村政に従事する庄屋の姿をみかけたことであろう。
(73)天神社の再興
延宝7年(1679)8月1日、松平信之は、大蔵院(臨済宗南禅寺末)の支配地に、天神社を再興した。むろん代替地として、1町3反1畝9歩の土地(古墓所)を大蔵院に与えている(『金波斜陽』)。天神社は、休天神として市民に親しまれていることはいうまでもない。
『明石記』によれば、境内は、30間に14間で、稲爪明神の西に連なる。以前は、小社が存在していたようで、それを拡大して再興したというのである。
延宝7年といえば、明石藩主である父忠国より、万治2年(1659)4月に、家督相続してから21年目にあたる(新訂寛政重修諸家譜1.45頁)。6月26日に大和国郡山への転封が発表された(在府中)。10月12日、江戸より明石に帰着(『累年覚書集要』8頁)。その6日後(18日)には、明石を出発して、大和に向かっている(同書)。あわただしい転封の準備のさなかに、天神社を再興したことになる。
祭神は菅原道真で、左遷の途中での明石駅でのエピソ−ドもさることながら、忙しいさなかの、天神社の再興の意味は、どのように理解すればよいのであろうか。
前年(延宝6)の秋(8〜9月)畿内を含めて西日本を中心に暴風雨が荒れ狂い、洪水をひきおこした。年末の12月には、領内である三木において、租税特免の復活を要求しての越訴(おっそ=江戸時代では直接の支配者である代官などへ訴状を提出せず、より上級の奉行・家老・藩主あるいは幕府の奉行所・老中などへ訴訟する方法をさす=岩波日本史辞典)が発生した(『近世生活史年表』)。この事件は、農民への視線を忘れなかった藩主信之にとつては、衝撃であったに違いない。ひさしく小社のまま放置されていた、天神社の再興に踏み切った決断の背景のひとつではなかろうか。
(74)相博
暦応2年(1339=延元4)9月27日、足利尊氏は、前右大臣の洞院公賢(とういんきんかた)にたいし、その所領である、平野荘(神戸市西区)と、3か所の荘園(摂津国西成郡榎並荘東方・同国楠葉河北荘年預名・備前国河田領家職)の相博(そうはく=そうばく)を求めている(「河東文書」『兵庫県史史料編中世1』153頁)。
相博とは「古代・中世、田地・所領などを交換すること」(広辞苑)であり、尊氏は、3対1のトレ−ドをおこなったことになる。物理的にも、尊氏側にはマイナスとしかみえない。それほどまでに、平野荘(明石の中心街より4キロ北北西)にこだわった背景は、なんであったのか。
これより2カ月前の7月26日、丹生寺(神戸市北区)の南軍は、突如として明石城を攻撃した(「文化庁所蔵島津文書」『大日本史料6−4』777頁)。この明石城というのは、人丸山(現在の明石城の本丸附近)さすものと考えられる。当時ここを守備していた島津忠兼(下揖保荘地頭)は応戦、撃退する。
翌27日、島津忠兼は、加爾坂(蟹坂=和坂)の北方において、ふたたび南軍と戦っている(同書)。
南軍は、なぜ明石を攻撃目標にしたのであろうか。当地方には、山陽道という大動脈と明石津があり、ここを南軍に封鎖されるということは、守護赤松円心にとっては、黙視しがたい状況となる。
また戦場となった、加爾坂(現在の和坂1〜3丁目)から南西1.5キロあまりのところに、松江という津があり、ここが経済的にも繁栄していたことは、貞治3年(1364)、福祥寺(神戸市須磨区須磨寺)住持の賢祐は、勧進如法経を、ここ松江でおこなっていることでも理解できる(「当山歴代」『兵庫県史史料編中世1』306頁)。
上記の相博以後、南軍の姿を明石地方にみることはなかった。
(75)新撰組隊士・斎藤 一
元治元年(1864)6月5日夜、新選組の近藤勇らは、三條小橋の旅館池田屋に集合していた尊王攘夷派の浪士を襲撃。打撃をあたえたこの(池田屋)事件は、新選組の名を高めたものとして、よく知られている。
このとき、当初は土方隊に加わり、井上源三郎にひきいられ、池田屋にかけつけた11人のなかに、斎藤一なる人物が存在する。かれは、金10両プラス7両を、恩賞として支給されている(以下に出典を明記しない場合は、松浦玲著『新選組』(岩波新書)による)。
斎藤一の父は、明石藩の足軽といわれ、御家人株を購入することによって、御家人(ごけにん)となった。御家人とは「江戸時代、知行高1万石未満の幕臣のうち将軍に御目見の叶わない者」をさす。江戸中期には、17,360人を数え(岩波日本史辞典)、株を購入したということは、幕臣になったわけである。息子の「一」は、江戸生まれの、江戸育ちといわれる(おそらく明石の土は踏んでいなかったと思われる)。20歳での新選組入隊のきっかけは、不詳との由。剣術の腕前は、相当なもので、重用された。
鳥羽・伏見の敗戦後、会津に赴くものの、榎本艦隊とともに北海道に向かった土方とは、袂をわかち、会津に残留するも、斗南(となみ)へ配流となった。
維新後の斎藤は、警視庁に出仕。長男勉の誕生直後の西南戦争にも参加。明治24年(1891)には、東京高等師範学校附属の東京教育博物館に、警視庁より転職。同32年(1899)まで勤務。その後は、退職する同42年(1909)2月まで東京女子師範学校の庶務兼会計として在職。奇しくも永倉新八郎と同じ、大正4年(1915)の9月28日に生涯を閉じる。享年72歳(伊東成郎著『斎藤一が封印した「沈黙の明治」歴史読本50巻9号』参照)。明石人の血をひいた人物としては、巧みな処世(過去を口の端にものぼらせない、という封印の仕方)であったといわねばならないだろう。
(76)松平直之と鶉
明石藩第12代の殿様(松平直之)は、鶉の飼育を趣味としていたようである。現在の本松寺の東側、太寺にいたる場所にあった林を、囲い込み、毎夜、役人をして、この地に撒き餌をして、鶉をあつめた。この場所は東長寺谷といった。なかでも美声の鶉を捕獲させて、籠養したそうだ。当時は、この鶉の飼育が、大変流行し、美声の持ち主には、千金の値がついたとつたえられる(『明石名勝古事談第2本』59頁)。
鶉を飼鳥とすることは、近世以前には、あまりなかったようである。ところが、慶長から寛永にかけて、「鶉合」(うずらあわせ=飼養しているウズラを持ち寄って、その鳴き声の優劣を競う遊び=広辞苑)が流行する(「嬉遊笑覧」『古事類苑動物部』727−8頁)。それから1世紀以上も経過した、明和・安永の頃にも、ふたたび「鶉合」が盛んになり、諸侯のひとり、松平直之もはまったようだ。
鶉は、甲州・信州・下野のものが上。摂津・播磨・美濃のがそれに次ぐという。その肉は、無毒とはいうものの、菌子(きのこ)と合わせ食すると、痔を発症する(『本朝食鑑2』234頁)。
松平直之は、天明4年(1784)10月10日に、病身の父直泰(なおひろ)を継承。藩領内も2年前の大不作のダメ−ジが残る。全国的には、夏から米価高騰。年末には、奥羽を中心に死者10万人を数える(遠藤元男著『近世生活史年表』)。明石藩内も無傷ではなかった。
翌天明5年(1785)5月は、畿内・諸国の旱魃。また美嚢郡より行き倒れの報告があった。作柄は好転しない(『累年覚書集要』163頁)。天明6年(1786)4月、不食になやまされ、直之は逝去(同書164頁)。美声をもたらす鶉は、きび・粟・稗・米を飼料とする(「喚子鳥下」『古事類苑動物部』727頁)。それでも、東長寺谷の林へ、役人を送りつづけたのだろうか。
(77)相之山
江戸時代、加古郡の東端に位置する東二見村(現明石市)は、港をかかえ、平野部に展開する集落であった。周辺に入会山がなく、北隣の福里村や、福里の西に隣接する二子村(播磨町)も同様であった。入会山がないということは、農業経営に必要な、肥料としての落ち葉や下草の採集が出来ないということである。
この三つの集落は、以前より、蛸草郷(稲美町)の六分一(ろくぶいち)村の相之山(あいのやま)を、入会山として利用していたのである(兵庫県の地名U/日本歴史地名大系29U.149頁)。
入会山(いりあいやま)というのは、「一定地域の住民が特定の権利をもって一定の範囲の森林・原野または漁場に入り、共同用益(木材・薪炭・まぐさなどの採取)すること」(広辞苑)で、むろん利用した場合は、その代価として「山手米」(山の収益に応じて村から納めた税=広辞苑)を支払う。
天正6年(1578)10月、平井山(三木市)に城砦を構築した秀吉は、本格的に三木攻囲戦に取り組む。なによりもその年に収穫された新米の、三木城への搬入阻止を考え、加藤光泰を、蛸草郷に派遣して、糧道の遮断を実行した(寛永諸家系図伝9.72頁)。
相之山は、東二見港から北へ4キロ。JR土山駅から2キロ弱の地点である。しかも域内を東北に三木街道が走っている。収穫後の耕作地の手入れのための施肥は、欠かせない。東二見村をはじめとする村々は、困惑の色をかくせなかったであろう。
三木落城直前の天正8年(1580)正月8日の夜から、郡界の瀬戸川の東、魚住地区に、秀吉は攻撃を加えている(反町文書)。東二見は、その攻撃からまぬがれた理由のひとつに、相之山の存在も、無視できないのではなかろうか。
(78)野之上城
明石市藤江に「野之上(ののうえ)」という字名がある(『兵庫県小字名集1−東播磨編』41頁)。バス停藤江小学校前から東北に100メ−トル余の水田から、北西に弓なりに伸びて、山陽電車の軌道を越え、民間企業の工場施設の敷地に埋没している。今から427年前に、この場所に城を構築しようとした人物がいた。
天正7年(1579)6月6日、別所長治は、児玉就英・乃美宗勝ら3名あての書状において、野之上に付城を一箇所申し付けたことを知らせている(乃美文書/新熊本市史史料編2.589頁)。
野之上の地続きに西進すること300メ−トル弱で、的射(まとい)の神事で知られる御崎神社にいたる。その西側を藤江川が流れる。河口まで400メ−トル弱を下れば、播磨灘にいたる。また南東に数百メ−トルで、『兵庫北関入舩納帳』にその名が頻出する、松江の港がある。この立地条件は、看過することはできない。
天正7年(1579)5月20日、小早川隆景は、乃美宗勝にあてた書状において、三木救援のために、普請衆・鉄砲衆につづいて、兵粮千俵の搬送を決定。まず五百俵に鉄砲・玉薬をそえて、大船で東上させる。しかし岩屋と兵庫では小舟に積み替えることを指示している(同書642頁)。
兵庫で積み替えた分は、北東2キロほどで、花隈城にいたる。一方、岩屋でおろした積荷は、指呼の間の明石沿岸(松江・藤江)に向かったものと推測する。
しかも藤江の西900メ−トル弱で、谷八木川の河口にいたる。ここから西は、毛利の影響下にあった。 昭和14年(1939)1月15日、地鎮祭をおこない、スタ−トした川崎航空機明石工場(拙稿「林の城から船上城」『講座明石城史』101頁)。滑走路の西端に位置する「野之上」。規模不明とはいえ、別所長治の意志が結実していたとしても、遺跡の確認は、不可能である。
(79)愛国婦人会への期待
関東大震災(大正12年9月1日)の発生から5日後、愛国婦人会魚住村委員部は、中尾区長(山崎政助)に、慰問袋の提供を要請したことについては、前述(サンピアニュ−ス156号)のとおりである。
罹災者にたいする物品の配給が、なかなかスム−スに進捗しなかったのか、9月30日には、女子青年会・婦人矯風会、婦人協会、桜楓会、桜蔭会、新真婦人会、東京女子大学、日本女子大学、実践女学校、自由学園、有隣園等の都下40あまりの婦人団体が、東京連合婦人会なるものを結成。毎日、120〜30人の婦人方が、午前10時に市役所に集合。70余ヶ所のバラックに、煉乳を配布するという活動を開始(大正ニュ−ス事典6.592頁)。
一方、愛国婦人会兵庫支部(神戸諏訪山武徳殿構内)は、12月20日、魚住村役場経由で中尾区長に、「愛国婦人会の必要」と題するパンフレットが配布されてきた(「山崎家文書2」『論叢ゆほびか』4.96−7頁)。その見出しには、「応急対策は資金の充実にあり」とあって、大震災への救援活動には、資金の裏づけが優先課題となり、それが対策として、会員の拡大に取り組み。下記の提案をする。
通常会員は(「毎年壱円づヽ十ケ年間」または「一時出金なれば金七円」)。
特別会員は(「毎年弐円づヽ十ケ年間」または「一時出金なれば金拾五円」)。
特別維持会員は(「毎年金四円づヽ」「百円に満つるまで金出」)。
魚住村中尾における入会の関連史料は、現時点では未詳とはいえ、相応の貢献がなされたものと考えられる。
明治34年(1901)2月14日、奥村五百子の提唱をうけて、公爵近衛篤麿・大山捨松(大山巌元帥夫人)らを中心とする発起人会が開かれ、創立された愛国婦人会(国史大辞典1.P7)。この大震災を契機に、一段の飛躍が期待されるのである。
(80)曾我物語
太山寺の所蔵する複数の古典籍のなかに、『曾我物語』の名がみえる。いわずと知れた曾我兄弟による、仇討ちの物語である。
建久4年(1193)5月2日、北条時政、駿河国に下向。将軍頼朝の狩猟のため、伊豆・駿河の御家人に、旅宿以下の作事を命令。監督のため先発す。
8日、頼朝は、足利義兼・小山朝政・畠山重忠・三浦義澄ら、錚々たるメンバ−を供に、富士野の夏狩りに出発。
15日、富士野の旅館に入り、待機していた北条時政の接待をうけ、終日の酒宴が始まる。
28日、子の刻(午後11時から午前1時までの間)、曾我十郎祐成(すけなり)・五郎時致(ときむね)兄弟は、工藤祐経(すけつね)の宿所に推参(押しかけ)して、親の仇を討つ。宿願を果たすも、兄祐成は新田忠常に討たれ、弟は頼朝の寝所を目指すも、大友能直に阻まれるという、謎の部分が残されるけれども、苦節18年目の宿願は果たした。この事実を下敷きとして、鎌倉末から南北朝期にかけて物語が成立する(『吾妻鏡』・『国史大辞典8』)。
この太山寺が所蔵する『曽我物語』は、現存最古の写本として有名で、国の重要文化財に指定されている。その奥書によれば、天文8年(1539)11月2日、当地方の支配者である、明石四郎左衛門尉長行が、亡妻の命日に、寄進したものでいる(「太山寺文書」・『兵庫県史史料編中世2.59−60頁』)。
この寄進行為の名分である亡妻の命日の年次は確認できない。寄進された書目には、古今集・伊勢物語・平家物語なども含まれ、これほどの典籍の寄進の理由を、即身成仏(生きているままで、究極の悟りを開き仏になること=日本語表現辞典)のみに求めてよいものかどうか。天文6年(1537)暮れからはじまる、尼子詮久(あきひさ)の播磨侵攻という事実を、看過できないと思われる。
日本歴史学会会員 茨木 一成
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