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■明石の史跡


明石の史跡

日本歴史学会会員
茨木 一成

 もくじ   1−10  11−20   21−30   31−40   41−50
      51−60  61−70   71−80   81−90   91−101


(61)兵火

ここに、一つの棟札がある。それは、天正7年(1579)正月に、稲妻大明神(稲爪神社)の宝殿再建なったときのもので、棟札を納めた箱の蓋に、次のような裏書がある(『兵庫県神社誌』中.218頁)

 宝殿とは、神のやしろ(『広辞苑』)、この場合は主神をまつる本殿である。それが天正6年(1578)6月に、兵火にかかって焼けたというのである。兵火とは、「戦争によって起る火事」(『広辞苑』)で、稲爪神社をまきこんだ戦いとは、どのようなものをさすのだろうか。
 同年3月29日より、三木合戦がはじまる。その5日前(3月24日)、本願寺の下間頼廉は、雑賀御坊惣中に宛てた書状のなかで、三木・明石・高砂の守りを固めるよう、指示を下した。翌25日には、来る27日に、岩屋(津名郡)に渡海するよう命じている(「鷺森別院文書」)。既に毛利方は、2月以前に、児玉就英が、岩屋に派遣され、西下してくるであろう織田軍にたいする、迎撃態勢が組まれている(『萩藩閥閲録』)
 毛利・雑賀の両軍が、このまま岩屋において、事態を静観していたとは考えられない。上月合戦に破れた秀吉が、書写山に撤収するのが、6月26日。翌日より、神吉攻城戦が始まる。指揮官は、織田信忠であった。29日、信長は津田信澄・万見重元を派遣して、兵庫〜明石〜高砂間の海賊に対応させている(『改訂信長公記』)。ここ明石でも、両軍のせめぎ合いが、断続的に続いたことと思われる。稲爪神社本殿の焼失も、その一齣ではなかったろうか。

 


(62)兵火A

 [月輪山来迎寺] 天台宗 在谷八木村 養老年中行基菩薩開基也 享保四年マテ
 凡千年余ニ成
 これは『地志播磨鑑』(平野庸脩編)に記された、来迎寺の関係記事である(同書242頁)。わずか1行余に過ぎない。これだけをみれば、平穏な寺運という印象を持ってしまう。
 寺伝によれば、「天正年中三木合戦のとき、羽柴秀吉の兵火にかかり、本尊は大般若経の中にかくされて難をさけられた」(『明石市史』下.850頁)とあるのをみれば、播磨の歴史の転換期に、なんらかの関わりをもっていたことがわかる。
 三木落城の9日前の、天正8年(1580)1月8日の夜、三木の秀吉は、毛利・雑賀の軍勢が守備する、魚住城(来迎寺の西北西方約2・5キロ)を攻撃した(「反町文書」『兵庫県史史料編中世9』363頁)。ここは、前年の9月におこなわれた、三木城への兵粮米搬送の拠点となったところである。
 魚住城の所在する魚住荘は、東は谷八木川、西は瀬戸川の範囲が考えられ(兵庫県の地名U.122頁)、瀬戸川の河口部右岸にある金輪寺(真言宗、魚住町西岡)も、寺伝には、応仁の兵火につづいて、天正の虚乱により炎上したという(『明石市史』下.855頁)。荘域の東西において、兵火の寺伝が残されているというのは、魚住城をピンポイント攻撃したのではなく、荘内全域が、掃蕩作戦の対象になったことを物語っているのではなかろうか。さらにいえば、荘域の北部に位置する遍照寺(魚住町長坂町)にも、別所方に味方したために、兵火に罹災したとの寺伝があるところからも、広範囲な軍事作戦の展開されたことが推察できよう。

 


(63)旧長坂寺の鐘

 文安4年(1447)11月10日、魚住荘に所在する長坂寺において、梵鐘完成の落慶供養がおこなわれた。梵鐘が失われてから年久しく、衛門(法名は道宝)なるものが、民間に浄財を募ったところ、きわめて短期間のうちに、成功を収めた。協力を惜しまなかった人々のなかに、注目すべき人物の名が、浮上してくるのである。その人物とはいがいにも、当時の播磨守護−山名持豊である(旧長坂寺蔵『兵庫県史史料編中世4』603頁)
室町幕府の当初以来、播磨守護は赤松氏が独占してきた。このポストを赤松氏が失う契機となったのは、世に有名な、赤松満祐による、将軍足利義教の誘殺事件(嘉吉の変)である。
 赤松満祐追討軍の主力として、但馬から播磨に進撃した山名勢は、嘉吉元年(1441)9月10日、本城(城山=きのやま)に追い詰め、とどめを刺す。同21日、四条河原に満祐の首が、曝されることによって、事件は落着する。ところが山名持豊は、播州に在陣して、年貢や所領の横領をおこなったという(『建内記』)。そして10月11日、山名持豊は、新守護として播磨に入国した。
 こうした動向に叛旗をひるがえしたのが、一族の赤松満政であった。文安元年(1444)12月20日から、翌年3月にいたる播磨での内戦は、「当国動乱」といわれるほど、はげしいものであった。この内乱を鎮定することによって、山名持豊は、名実ともに播磨守護となったのである。長坂寺は、現在は廃寺である。寺址は魚住町長坂寺。しかも古代以来の大動脈である山陽道に面している。南へ3キロ弱下れば、そこは海上交通の一拠点でもある魚住泊(江井ヶ島港)。人と物の流通する要衝に着目したのも、なんら不思議ではない。

 


(64)宇佐使と明石

 文治元年(1185)12月6日、宇佐使(うさづかい)が都を出発した。使者は和気相家である。彼は山陽道をひたすら西下して、8日ごろには、ここ明石に到着したところ、待ちかまえていた武士等によって、神宝(劒・神馬・五色絹)を、駅家に捨て置いたまま、京都に追い返されるという事件が発生した(『百錬抄』『大日本史料4−1』19頁)
 宇佐使とは、「天皇即位のときと国家に異変あるとき宇佐八幡宮に奉告祈願の奉幣をするため派遣される勅使」といわれる(『国史大辞典2』)
 元暦2年(1185)3月24日におこなわれた、長門国赤間関の海上での合戦(壇ノ浦の戦)により、平氏は敗北(『吾妻鏡』)。先帝(安徳天皇=8歳)をはじめ、二位尼(清盛室=60歳)などが入水。義経は、捕虜となった建礼門院や前内府(平宗盛)をひきつれ入京するのが4月25日(『帝王編年記』)
 前政権担当者である平氏の滅亡という、重大な国家異変により、朝廷では、宇佐使派遣が、政治日程にのぼってきたのである。
 片道20日余りの路程で、派遣された勅使は、畿内を通過し、播磨国明石に到着したときに、武士の狼藉に遭遇。使命を果たせないままに帰京する。
 平氏政権の時代には、西は加古川左岸(加古川市加古川町)より、東は林崎(明石市林崎町)にいたる広大な地域は、五箇庄(ごかのしょう)といわれ、清盛の所領であった(『兵庫県の地名U』)。JR明石駅より東へ4キロ弱の距離にある山田川。その流域は山田荘と呼ばれ、「初音尋ねる山田御所」(『平家物語』)といわれた清盛の別荘が存在した。そこには清盛の分骨が埋葬され(『吾妻鏡』)、東西を清盛ゆかりの場所に挟まれた明石の治安は、良好であったろう。駅家で、狼藉を働く武士の姿を目撃した明石の人々は、武士の時代の到来を実感したものと思う。

 


(65)松江の進如法経

貞治3年(1364)、福祥寺(須磨寺)住持の賢祐は、勧進如法経の実施を決断する。まず須磨村の薬師堂(浄福寺=頼政薬師)を皮切りに、ついで播州松江(明石市松江)でおこなう。
 4年前の延文5年(1360)3月27日、福祥寺は炎上。金堂、釈迦堂、鐘楼などの建物や、法会具足などを焼失する。多数の僧侶が離散という非常事態に直面した(「当山歴代」『兵庫県史史料編中世1』67〜68頁)
 寺院再興の手段として、如法経の勧進がおこなわれた。「如法経」(にょほうぎょう)とは、「一定の規則にしたがって経文を書写すること。特に『法華経』を写すこと」をいう(中村 元著『仏教語大辞典下』1063頁)。しかも勧進である以上、人と物が流通する場所である港が対象となるのは、不思議なことではない。
 さかのぼること100年以上も前の、建長8年(1256)4月7日、かねてから申請のあった、播磨国多聞寺(神戸市垂水区多聞台)の明石津における勧進行為を、10年間に限って認める旨の、朝議決定がなされた(『経俊卿記』)。福祥寺は、なぜ明石津ではなく、松江であったのか。
 松江(正護)寺の東600メ−トルの地域にある、林崎三本松瓦窯跡群は、12世紀末以来、京都の著名寺院の瓦を生産・供給しており(『発掘された明石の歴史展』9〜12頁)、福祥寺が意図したのは、金銭もさることながら、復興資材の調達も、重要な要素として忘れることはできない。
 今日、淡路島を眼前に、風光明媚でかつ閑静な松江地区ではあるけれども、中世のある時期においては、人々のざわめきが飛び交い、活気に満ちた港町であった松江。時の流れのすごさを感じるのは、筆者のみだろうか。

 


 (66)日和見

 日和見というのは、「天気模様を見ること」ともう一つ、「事の成行きをみて有利な方につこうと形勢をうかがうこと」(『広辞苑』)の両様の意味があることは、今更ながらという感じである。歴史的には、後者のほうに、注目があつまる。山崎合戦のとき、筒井順慶の洞ヶ峠(天王山の南約7キロ)の話(誤伝)は、あまりにも有名であるけれども、今回は、当地方の支配者として、応仁の乱以後を生きてきた、武士の話である。
 天正5年(1577)10月以来、播磨に入国した羽柴秀吉への対応は、意外にも、小寺孝高(在姫路)以外は、親毛利の姿勢が明確であった。
 書写山(円教寺)に布陣した秀吉は、平野部の空白を懸念したのだろうか、別所重棟(長治の叔父)を、阿閇城(播磨町)に配置した。
 これにたいし、毛利方は、天正6年(1578)3月末、淡路の岩屋に集結した毛利・雑賀・淡路の軍勢(8,000余)は、4月1日、別府(加古川市)に上陸。阿閇城を攻撃目標とした。
 劣勢の阿閇城を救うため、小寺孝高は、精兵500余率いて、姫路より駆けつける。全員が、鉄砲と弓矢で装備をしていなかった。当時のハイテク兵器である鉄砲を所持しないものには、投石用の石を準備させる。結果は、孝高軍の勝利に終わる(『黒田家譜1』)
 織田・毛利両軍の播磨における第一ラウンドの帰趨は、両陣営に影響を与えることになった。戦況を見つめていた高砂の梶原景秀と、明石則実は、即座に使者を孝高のもとに送り、秀吉へのとりなしを依頼した。
 孝高の従兄弟でもある明石氏の判断は、当地方を戦火からまもったことは、慎重に評価しなければならないだろう。             

 


 (67)明石入道

 明石入道といえば、当地方はいうまでもなく、おおかたの人々は、『源氏物語』明石の巻に登場する、「明石の君」の父親にあたる「明石入道」を想起されることと思う。ところが、秀吉の時代にも、じつは「明石入道」なるものが実在するのである。
 天正15年(1587)2月1日より、九州遠征のための先陣が、街道筋を西下する。ここ明石でも、これまでに見たこともないような、おびただしい軍勢が連日にわたり通過。
 3月1日、秀吉は、都を出発。陸路を選んでいる(『黒田家譜4』)。秀吉の右筆(ゆうひつ=書記官)であった、楠長聴(くすのきちょうあん=正虎)の覚書によれば、翌3月2日、兵庫を出発。須磨まで歩行し、須磨より乗船して、明石に到着。その夜は、明石にて一泊。「手の舞、足の踏所をしらす」というほど、秀吉を歓待したのは、明石入道や高山右近であった(「楠長聴供奉道中宿所覚書」『兵庫県史史料編中世9』339頁)
 歓待の場所は、おそらく船上城であったろう。当時の城主は、高山右近であった。楠長聴のメモによれば、右近の上位に、明石入道という人物が記録されていることである。
 明石を名乗っているからには、戦国以来の明石地方の支配者である明石氏の一族であると考えても、差し支えはない。入道とは、仏門にはいること、より具体的には、出家剃髪したものの総称である(中村元著『仏教語大辞典下』)。若年に出家する場合もあるけれども、ここは、秀吉の播磨入国以前から、船上の住人であり、また、この5年後、豊前国内裏の浜において、御座船座礁の責任を問われた、当時、61歳の石井与次兵衛ではなかろうか。

 


 (68)慰問袋

 大正12年(1923)9月1日の東京日々新聞の号外によれば、大地震発生を、つぎのように知らせている(『大正ニュ−ス事典』6.123頁)
 本日午前十一時五十五分、伊豆大島の東海底に地震があったため、東京府下及び神奈川、千葉、静岡各県に大激震あり、振幅四寸、市内は本所、浅草、深川等の低地最もはなはだしく、家屋の倒壊、死傷無数、火災各所に起こり、(下略)被害の実態調査もさることながら、被災者の日常生活のサポ−トが、優先されなければならない。
 翌日(2日)、9項目にわたる非常徴発の緊急勅令を公布、即日施行の運びとなる。東京府、群馬、栃木、埼玉、千葉、神奈川の各県はこれを適用した。内務省令をもって、徴発の対象となる物品は、(1)食糧品、(2)飲料、(3)薪炭、油その他の燃料、(4)家屋、(5)建築材料、(6)薬品その他の衛生材料、(7)船その他の運搬具、(8)電線(9)労務などであった(大正12年9月4日、大阪毎日新聞/同書208頁)
 これをうけて、9月6日、愛国婦人会魚住村委員部は、中尾区長(山崎政助)
にたいし、会員外の婦女子にたいしても、慰問袋の供出を要請した。その中身は、「タオル 歯磨 歯磨楊枝 紙ちり紙 はがき 鉛筆 石鹸 其他ノ日用品」、なかでも「衣服 襁衣」類は、歓迎されたようであるけれども、価格の問題があって、無理をせずに、提供者本人の随意にまかせられている(「山崎家文書2」『論叢ゆほびか』4.84頁)。まさに村をあげての善意がつめこまれた、慰問袋である。
 阪神・淡路大震災当時、神戸市内のコンビニが早々に開店・営業を開始して、被災者に貢献したことを想起するに、「楊枝」までも提供を求められた、当時の救援活動の困難さは、予想を超えるものであったろう。

 


 (69)義経と明石浦

元暦2年(1185)3月24日、壇ノ浦の合戦後の義経の足取りについては、同(4月)十四日、九郎大夫判官義経、平氏男女のいけどりどもあひ具してのぼりけるが、播磨国明石浦にぞつきにける。名をえたる浦なれば、ふけゆくまゝに月さへのぼり、秋の空にもおとらず。(平家物語巻11)
とあって、壇ノ浦から20日後に、ここ明石に到着している。それも、建礼門院(安徳天皇の生母)をはじめ、前内大臣(平宗盛)・平大納言時忠ら、入水したものの救助された人々たちを、引き連れていた。そのなかには、安徳天皇を抱いて、入水、しかし存命した按察局の姿も------(吾妻鏡元暦2年4月11日条)
 義経は、なぜ明石浦に上陸したのだろうか。重要人物を同道しての都までの道中を考えたならば、より都に近い兵庫の方が、よいのではなかろうか。
 明石浦というのは、東は、山田川河口部右岸より、明石川左岸までをさす。この山田(神戸市垂水区西舞子)の地には、治承5年(1181)閏2月4日に亡くなった、清盛の遺骨が当地の法華堂(所在地不詳)に埋葬されており(吾妻鏡同日条)、建礼門院、平宗盛そして義経と、それぞれが清盛とは浅からぬ因縁の持ち主たちが、うちそろって法華堂につどうという、フィクションの世界に足を踏み入れても、なんら不思議ではない。
 山田から東へ8キロ。そこは須磨一の谷(神戸市須磨区一ノ谷町)。1年前の2月7日、逆落としという奇襲作戦により、平氏をして再起不能にいたらしめた大勝利の場所である。義経主従は、感慨にひたったであろう。
 さらに山陽道を東へ8キロあまりで旧福原京にいたる。宗盛にすれば、福原遷都がなかりせば、との思いも脳裏をかすめたかもしれない。すべては夢の跡である。『平家物語』が、義経をして明石浦に足跡をしるさせたのは、悲劇の前のひとときの栄光を象徴しているように思える。

 


 (70)人丸社の常燈

元和3年(1617)7月28日、幕府は、信濃松本城主小笠原忠真を播磨明石城に移封した(史料綜覧15)。当時の明石城というのは、高山右近が築城し、池田輝政の時代にも、一族が在城した船上城(明石市神明町)を指す。
 翌年(元和4)2月、幕府より、新城の築城命令により、現在の明石城が出現する。懸案となったのは、中世以来、本丸の位置に鎮座していた人丸社の処置であった。築城地決定とともに、現在の場所(明石市人丸町)に遷宮するのが、元和8年(1622)という(『講座明石城史』関連年表)
 人丸社に関しては、これで一件落着とはいかなかった。思いがけないところから、適切な意見が城主(小笠原忠真)に寄せられるのである。それはこの2年前の元和6年に京都所司代に補任された、板倉重宗(勝重の長子)からであった。
 それは城外に移座させる人丸社の立地条件についてのことで、当時、信仰の厚かった人丸社を、「海辺ノ高ミニ建ラレ」たならば、街道筋を往来する者にとっても、参詣に大変便利である。もしもこの(重宗の)意見が聞き届けられるのであらば、燈籠を寄進したいとの申し出があった。
 忠真も、ほかならぬ所司代からの意向を尊重し、現在地に社地を決定したという。竣工後、重宗よりおおきな燈籠が寄附され、常燈(常夜燈)として建てられた。常燈にこだわったのは、重宗がかつて播磨灘を乗船して通過したときに、夜中に風の変化により破船のことなどがあったため、常燈を設置しておけば、破船の愁いはなくなる、つまり海難の防止を考えたからである(明良洪範23/古事類苑器用部2.237−8頁)。同様の常燈としては、保久良神社(神戸市東灘区本山町北畑)にある「灘の一ツ火」がよく知られている(神戸市教育委員会編『神戸の史跡』12頁)。北アルプスを眺めてきた松本城主。海への視点の欠如を、ことさらに問責することはさけたい。
 親子2代にわたり、所司代をつとめ、晩年はその功績により、大老格の待遇をうけた能吏(板倉重宗)の一端を示す話である。 

 

                   日本歴史学会会員     茨木 一成




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