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■明石の史跡


明石の史跡

日本歴史学会会員
茨木 一成

 もくじ   1−10  11−20   21−30   31−40   41−50
      51−60  61−70   71−80   81−90   91−101


(51)第一艦隊の公開

 世界の注目を集めたワシントン会議。目玉は、英米日3国の主力艦の保有量を10:10:6という数値で明記し、制限したことである。大正11年(1922)2月6日の海軍軍縮条約調印で、全日程が終了。極東における3国の協調体制が構築された。
 調印から一月余を経た3月10日、魚住村役場より各区長・班長に宛て、22日から3日間神戸に入港・碇泊する第一艦隊(戦艦6隻・巡洋艦7隻・駆逐艦14隻・潜水艦7隻)の拝観(22・23の両日)が許可された旨の通達がなされた。ただし心得としては、「幼年者又ハ扶擁ヲ要スルモノ」は危険なので遠慮をのぞんでいる。拝観の時間帯は、午前9時から午後3時まで、艦内での下駄の使用は不可。艦内における婦人の用便は困難との項目がある(山崎眞一氏所蔵文書)
 数字的なものは不詳とはいえ、多くの神戸市民を始め、ここ魚住村からも参加者はあったろう。かれらが目にした6隻の戦艦は、
 長門(39,130トン)  陸奥(39,050トン)
 伊勢(35,800トン)  金剛(31,720トン)
 霧島(32,156トン)  比叡(32,156トン)
であり(写真集日本海軍艦艇ハンドブック)、まさに日本海軍の主力艦隊であった。ワシントン会議により、八八艦隊(戦艦8隻・巡洋艦8隻)という建艦計画は、放棄せざるをえなかったとはいえ、史上最初の41センチ砲を搭載した長門と、それにつづく陸奥の威容には、素直に圧倒されたことであろう。
 昭和15年(1940)におこなわれた神戸での観艦式(6歳の筆者の記憶に誤りがなければ)。再度山上から眺めていた市民の多数は、心強く思ったろう。しかし、海を埋め尽くしたあの巨大な艦船群が、4年後に消滅する運命にあったとは、予測できなかったのである。

 


(52)宝蔵寺の十字架

 海門山宝蔵寺(明石市林2丁目)は、れっきとした真言宗の寺院(密蔵院末寺)である。
開基は応永年中という。密蔵院が応永20年(1413)孟夏(4月)中旬の建立が伝えられるので、(明石記)、宝蔵寺の創建は、それ以降の応永年中ということになるにもかかわらず、現在の当寺には、十字架が伝存する。そのあたりの事情を考えてみたい。
 天正13年(1585)閏8月、秀吉のおこなった人事異動−高山右近という著名なキリシタン大名の明石入部(船上築城)は、当地の人々に複雑な対応を強いることになる。
拒否反応をあからさまに示したのは、僧侶達だった。高槻のおける社寺の破壊というような話を聞いており、その二の舞になるのは避けたいとの強い意向から相談の結果、秀吉の母堂(大政所)と正室(北政所)に、歎願することを決め、仏像を船に積み込んで大阪に向かった。
 結果は、願いは届かず、持参した仏像も四天王寺預けという、無残なものとなる(フロイス『日本史』/講座明石城史476−7頁)。しかしながら天正15年(1587)3月にはじまる九州遠征。5月8日の島津義久の降伏により終結。6月19日に、秀吉は宣教師の国外退去を命じた。右近のもとに詰問の使者が到来。翌朝、右近は追放を甘受することを家臣に告げるとともに、明石へも急使を派遣。家族の淡路島への退去を指示する。船上の城下は騒然となる(海老沢有道著『高山右近』142−4頁)。キリシタン関係者は、家臣を含めてあわただしく退去せざるをえなかった。寺院には再び僧侶たちの読経の声が響き、残された十字架は、無言の中に激動の一瞬を物語るように思える。

 


(53)藤江村の太山寺詣

  『林崎村郷土誌』(大正8年刊)に表題に関して、次のように記されている。
(上略)本邑古来より今に至るまで習慣上本邑に一の大病人ありし時は邑人相集まりて太山寺に参詣し病癒を祈る病平癒せば又邑人相集まりて太山寺に参詣す付近各邑に未だ會てあらざる習慣なり(下略)
 重病人が発生したならば、複数の村人が太山寺(天台宗の古刹、本尊は薬師如来)にお参りをする。快癒すれば、また参詣して謝意を表するという。
  このような習慣が、いつごろから発祥したものだろうか。
  寛永16年(1639) 10月26日 太山寺行事は氏子らの尽力により前年に再興なった和坂村上之宮の「進退」(しんだい=中世、土地に対する支配・占有・処分などの権利を有すること=岩波古語辞典)を主張した多聞寺(真言宗=神戸市垂水区)の非法を大久保加賀守忠職(ただもと=明石藩第4代藩主)の奉行所に訴えている(播磨国明石郡林神社文書2項)
  結末は、寛永21年(1644) 7月10日 に多聞寺側より詫び状を提出して落着となる(同書3項)
  したがって和坂村上之宮は、太山寺の管理下に所属することになった。
問題の和坂村上之宮というのは、和坂・林・東松江・西松江の4か村の産土神一式内林神社のことである(明石記)
  『金波斜陽市井上』によれば藤江村は和坂村(上之宮)とともに林崎庄に所在する。藤江地域の3神社(御崎・青竜・三社)は、現在も林神社(上之宮)の神主が兼帯している。太山寺とのかかわりは、寛永の末年に求めることはできよう。それでも藤江村のみに限定された「太山寺詣」の習慣は、もっかのところ霧中としかいえない。しかし見過ごしそうな伝承にも歴史的事実の一端は存在するものである。

 


(54)寛文の災害

 藩政時代の明石を襲った災害のなかで、寛文10年(1670)8月23日の大風雨は、被害の実情が幕府に報告され、幕府の記録に次のように記載されている(厳有院殿御実紀同年9月3日条/徳川実紀5)
 O(上略)松平日向守信之所領播州明石。この八月廿三日大風雨にて。本丸二三の丸破損し。櫓。多門。そのほか士屋五百軒。商屋七十八。浦民の家三百七十一潰れ。男女十一人死し。船百九十二艘損じたるよし注進す。
(下略)
 築50年を経過した城内の主要建造物をはじめ、武士の家屋500軒、商家78軒、漁民の家371軒が倒壊し、さらに損壊した船192艘を数える。
 被害の実情を、「播州明石記録」を参考にすると、13年後の天和3年(1683)の惣町中の宅数は1,389軒。商家78軒というのは、家の規模が不詳とはいえ、大がつくほどの被害とは思えない。船数304艘(うち145艘は50石積)のうち192艘に何らかの損害が確認できるのであるから、これは高潮の被害を考慮に入れる余地があるかもしれない。
 それにしても武士の家屋の被害が、500軒という数字は、おどろきである。原因を何に求めたらよいのだろうか。災害時の藩主(松平信之)は第6代目である。周知のように転封にさいしては、家臣一同、家財道具などは、移転先へ送るか、または当地で処分することが考えられる。しかし家屋は移動させることは出来ない。そうすると築城の完成時に、城下町も体裁を整えたはずで、大小の屋敷も、城と同じく築50年ということになる。老朽化は否定できないだろう。
 同じ日、須磨地方も大風に見舞われ、民家16軒が「吹きつぶ」されている
(元禄・享保年代記/神戸市文献史料1.259頁)。やはり予想を超える「大風」が、災害の元凶に指名しても差し支えはないだろうか。

 


(55)重代の家器

 寛保甲子(きのえね)の年に、明石藩士森田七郎右衛門堅定なる者が、旅立っている(東播秘談坤10/講座明石城史568−9頁)。彼は藩主(松平直純)の傅(おもり役=岩波日本語表現辞典)や、大坂留守居役などをつとめた人物で(同書548・528頁)、寛保甲子は、2月21日に延享元年と改元しているので、それ以前に死去したことになる。葬儀の直後にちょっとしたトラブルが発生。才智ある藩士がそれを適切に解決する話である。
 菩提寺である長寿院(人丸町)で無事に葬送の儀式が終了。式場に飾られた武具等を持ち帰ろうとした時、祖順方丈よりストップがかけられた。理由は、「諸道具うけかへし」と称して、小額の銀子を納めたところ「其価はなはた軽微」だったのが真相で、遺族一同会議を開いて対応をはかる。
 その場にいた郡代の下役−立田戸右衛門が、一肌ぬぐことになる。葬儀の場に諸道具を展示するのは承知している。しかしそのまま寺に留置されるのは、代々受け継がれた道具だけに忍びないものがある。そこで具足(甲冑)は箱のみ、槍・刀は木竹を白紙でまいたものを使用する。要するに代替品でもって行うという提案をした結果、無事に落着となる。あらためて立田戸右衛門の才智が、評価されるのである。
 武士にとって「重代の家器」、すなわち什物(武具・系図・文書等)は、当主が代々相伝してきたものである。相伝することが家督相続者として認定された。近世の大名・旗本の諸家は、大切に保持しつづけてきた歴史がある(岡崎寛徳著「家督相続・改易・再興と什物の相伝」日本歴史670.参照)。一般の武士も同様であることがわかると同時に、18世紀の中頃における藩士の経済生活の一端がのぞき見できる話でもある。

 


 (56)鬼孫・小笠原忠政

 明石藩初代藩主の小笠原忠政(忠真)は、その武勇は人口に膾炙されている。その根拠は、慶長20年(1615)5月7日、大坂夏の陣最後の1日、正午頃に真田幸村(信繁)は、茶臼山(大阪市天王寺区)の家康の本陣を攻撃した。すべての武具を赤一色に統一した真田隊3,000余は、家康の馬印を倒し、本陣めがけて突進。敵味方の区別もつきにくいほどの乱戦となる。とはいえ、細川忠興は、「此方の御人数、数多これ有るに付」と勝利を予測したように、午後3時頃までに大坂方は大敗する(細川家記)
 槍奉行であった大久保彦左衛門忠教は、「三方ケ原にて一度御旗の崩れ申すより外、あとさきの陣にも、御旗の崩れ申す事なし」と記している(三河物語)。また島津家久も「(家康の)御陣衆三里ほどづつにげ候衆は、皆々いきのこられ候。三度めにさなだもうち死にて候。真田日本一の兵、いにしへよりの物語にもこれなき由」と激賞した(薩藩旧記/二木謙一著『大坂の陣』175頁)
 このとき父小笠原兵部大輔秀政・長兄忠脩(ただのぶ)は討死。次男忠政は、馬上で槍をふるっての奮戦もかなわず、重傷を負う(寛永諸家系図伝4.184−5頁)。3里も逃避しなかったための結果であろう。家康は2人の忠死をいたむとともに、忠政には治療のために医師を派遣している。
 同年閏6月26日、二条城に諸大名を集めて舞楽を興行した時、忠政が出席するまで舞楽をはじめなかった。ようやく姿を見せたとき、家康はみずから忠政の傷を検視して、「是は我が鬼孫にて侍る」と諸将に紹介し、遅参の理由は、未だ治癒しない傷であることを強く印象づけた(岡谷繁実著『名将言行録』5.212頁)。ただ閏6月26日というのは間違いで、舞楽の興業は翌27日のことで(駿府記ほか/史料綜覧15.115頁)、公家衆も出仕するなかでの「鬼孫」の披露であった。

 


 (57)松江寺の鐘

 かつて広島市中区小町に所在する妙慶院(浄土宗)に、次のような銘文を持つ、鐘が存在したといわれる(広島市史社寺誌215−6頁)
       (五)
  播州明石郡丑ケ庄ノ内林崎郷浜御瀧御宝前撞鐘也
  右奉鋳処如斯 宝徳元己巳年十一月晦日
  大檀那惣庄氏人等 大工次郎左衛門尉
  別当 阿闍梨了玄
             敬白
  神主 藤原直吉
 宝徳元年(1449)11月晦日に、五箇庄(ごかのしょう)林崎郷の氏人たちが大檀那(布施物を多く喜捨する檀家。寺の檀家の内で有力なもの。=広辞苑)となって、浜御瀧御宝前に撞鐘を奉納したものである。宝前(神仏の御前。=広辞苑)に鐘を奉納するというのは、何らかの理由により消滅したからにほかならない。
 この7か月前の宝徳元年4月12日、山城大地震が発生。社寺に大きな被害をあたえている(史料綜覧8.3頁)。マグニチュ−ドは53/4〜6・5という(平成16年版『理科年表』704頁)。建造物が破壊されたならば、釣鐘は地面に落下するだろう。鋳造したのは、完全に損なわれたからに他ならない。したがって、この地震の可能性は弱い。奉納の対象となった林崎郷の浜御瀧とは、いかなる寺院なのか。『明石記』(近世中期)の東松江村の観音堂の項に明石郡三十三所の第四番として、御滝山松江寺(みたきさんしょうごじ=現在は正護寺・真言宗)の名が見え、「ふたらくとおなし流れの御瀧山ねかひをこゝにむすひとゝめよ」と、本尊(十一面観音)の賛仏歌が記されていることからも、中世においては松江寺と呼称されていたことが理解できる。(以下次回)

 


 (58)続・松江寺の鐘

 ほんらい、東松江の松江寺(正護寺)にあった鐘が、どうして広島に移動したのであろうか。妙慶院の寺伝によれば、福島政則が船にて播磨灘を通過したとき、突然船が停止してすすまなくなった。不思議に思い海底を探索させると、この鐘と薬師如来の霊像を得た。そこでこれらを持ち帰って、妙慶院に納めたという(以下出典を明記しない場合は、広島市史社寺誌による)。政則が播磨灘を西進したのは、慶長5年(1600)11月、関が原の勲功の賞として、安芸・備後両国で49万8,000石の太守に封じられて、入国する途中の出来事なのである。
 妙慶院というのは、政則入国後、現在地に移し寺領100石(一説に200石とも300石ともいう)を与えて菩提所としている。妙慶という院号は、政則の母堂の法諡にもとづくという。同時に、僧増誉を住職に招いたといわれる。寺伝では、増誉は明智光秀の遺子といい政則の内室は光秀の妹ともある。
 妙慶院は、元和5年(1619)6月2日、政則改易後、寺域は縮小され現在の規模になったという。
 堂舎は、宝暦8年(1758)の大火で灰燼に帰し、享和元年(1801)には本尊が焼失。本堂は慶応3年(1867)に失なわれ、明治4年(1871)に再建の運びとなる。松江から退去させられた鐘は、その後どうなったのか。承応年間(1652−5)に罹災し、音響が損なわれたという。さらに宝暦8年の大火に破砕し、その破片を集めて、寛政11年(1799)8月1日に改鋳なったものの、松江時代の原型はとどめてはいなかったろう。残念ながらこの鐘は現存しない。あるのは銘文の写しのみである。松江寺の鐘を不幸な運命に陥れたのはいったい誰なのだろうか。深い関心をもたざるをえないのである。

 


 (59)島津忠兼

兵庫湊川合戦(建武3=1336年5月25日)から2か月あまり、明石郡の北辺において、南軍の不穏な動きが見られる。
 8月3日、岸田少輔房隆覚は、東条城(加東郡)。7日には淡河荘(美嚢郡)において、南軍と合戦に及んでいる(辻文書/大日本史料6−3.651頁)
 9月5日、下揖保荘地頭島津周防五郎三郎忠兼と左衛門三郎忠政は、明石郡下端(神戸市垂水区下畑)に城郭を構えた南軍と合戦。その後の数日は、撃退した南軍を追って、押部(神戸市西区)・志深見(三木市志染町)に転戦する。
 9月20日には、丹生寺(神戸市北区丹生山上の明要寺)での激戦の結果、忠兼自身も負傷する(文化庁所蔵島津文書/南北朝遺文九州編777・778号)
 丹生寺に立て籠もった南軍は、金谷経氏(新田義貞一族)であった(太平記巻19)。丹生山の山麓を走る湯山街道(姫路市より三木・有馬・生瀬・小浜を経由して箕面市の瀬川にて、西国街道=171号線に合流)を遮断した南軍は、ゲリラ戦を展開。播磨守護赤松円心の頭痛の種の一つであった。
 それから2年後の建武5年(1338)閏7月、丹生山の南軍の鉾先は、明石地方に向けられた。26日、明石城を攻めた南軍は、翌27日には加爾坂(和坂)北方に展開する。これを撃退したのは円心指揮下の島津忠兼であった(文化庁所蔵島津文書/南北朝遺文九州編1220号)
 注目したいのは、明石城の呼称が見られることである。現明石城の本丸付近には、中世には人丸神社が鎮座しており、景勝の地であるとともに下に山陽道をひかえ、明石海峡には、9世紀より対岸の岩屋とのフェリ−が運航され、物流の面からも戦略的には重要な場所であった。これ以後のある時期まで、島津忠兼は明石を警固しており、当地方の治安責任者であったとも位置づけられる。

 


 (60)大蔵谷の叡尊

 弘安8年(1285)7月23日、85歳の叡尊は、播磨の法華山一乗寺(加西市)にむけて、奈良西大寺を出発。ここ2〜3年間で7度におよぶ、熱心な勧請に答えるためである(以下、出典を明記しない場合は『感身学正記』による)
 24日、尼崎。25〜6日は芦屋。そして27日に、明石に到着する。早速「堂」において、供養法(くようぼう)を修した。供養法とは、仏にたいする各種の奉仕。たとえば、『花鳥余情』(かちょうよせい=一条兼良の筆になる、室町期の源氏物語の注釈書)にあるように、三宝・父母・師長・亡者や、自身の仏道精進のための行い(つとめ)を意味する(中村元著『仏教語大辞典』上)。ただ、供養法がおこなわれた場所(寺院)については不明である。
 一乗寺よりの帰途、8月10日に大蔵谷にて一泊しており、大蔵谷が、当地方における整備された宿泊施設であったことがうかがえよう。
 叡尊が足跡をしるしてから3年後の正応2年(1289)6月1日、阿波国(徳島県)で発病した一遍(智真)は、7月はじめに福良(三原郡南淡町)に渡り、淡路島を駆け抜け、同18日に明石の浦に至るも、人々に教えを説く間もなく、兵庫の島より迎えの船に乗り、早々に明石を立ち去った(『一遍聖絵』岩波文庫)
 建永2年(1207)2月18日、土佐国配流となった法然(源空)。途中、兵庫の経島(神戸市兵庫区)や、高砂の浦(高砂市)では、多くの人々に結縁した(『法然上人絵伝』下/岩波文庫)。結縁とは、仏道に無関心な人にも関心を持たせて関係づけることである(中村元前掲書)。明石が欠落しているのは、父漆間時国を殺めた人物(明石定明)の故郷であつたからなのだろうか。
 一遍・法然に比して、明石の人々に、供養法を説いた叡尊に、筆者は親近感を覚えるのである。

 

                   日本歴史学会会員     茨木 一成




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