| ■明石の史跡 |
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明石の史跡
日本歴史学会会員
茨木 一成
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(41)西林寺の永井荷風
東京大空襲(昭和20年3月10日)により、26年住み慣れた偏奇館を失い、「われは着の身着のまま家も蔵書もなき身」となった荷風は、3月20日、菅原明朗氏を訪ねて、行く末について相談する(以下出典を明記しない場合は、「罹災日録」『筑摩書房現代日本文学全集16』による)。氏は、埼玉県志木町あたりの農家を手配する。空襲は激化し、5月30日に志木町への避難を菅原氏に伝えた。翌日に現地を訪ねたところ、空室なき有様であった。そこで菅原氏は、自分の郷里である明石行きを勧めることになる。熟慮のすえ、荷風は「関西にさすらい行く」ことを決意。6月2日午後4時半、東京発罹災民専用大阪きに乗車。一路東海道を西下。翌3日午前6時すぎに京都着。ただちに明石行電車に乗り換え、正午前には菅原氏の自邸(大蔵町8丁目)に到着。ここにも罹災者の先客がおり、やむを得ず、当分は西林寺に厄介になることとなる。庵室より淡路島を望む景色は、荷風をして「何等の至福ぞや」といわしめている。
心の落ち着きを取り戻した荷風は、大蔵谷の海岸をはじめ、明石城公園から明石神社・人丸神社を漫歩する(6月8日)。この頃に書かれた一句が、西林寺に現存する(先般、二階堂正純住職のご好意により拝見)。
稲妻や 世をすねて 竹の奥 荷風
ところが6月9日の明石空襲は、せっかく落ち着きかけた荷風を、岡山市へと追いやってしまう。西林寺滞在は、わずかに10日であった。
7月15日、岡山市西部の庭瀬の福田村に足を留めた荷風のもとに、勝山町の谷崎潤一郎より書が届く。8月13日、午前9時20分岡山を出発。新見経由で午後1時半勝山に着く。ただちに谷崎を訪ね、8月15日の午前中まで会合が続く。午前11時20分の列車に乗車した荷風は、午後2時岡山駅に無事到着。正午の玉音放送はというと、車中で谷崎夫人より贈られた弁当を食し、睡魔にとらわれ、すべて夢の中だったようである。
(42)足利義昭と明石の浦
天正4年(1576)2月の初め、寄寓先の紀州興国寺(和歌山県日高郡由良町)を出発した前将軍足利義昭一行は、8日には備後鞆浦(広島県福山市)に着いている。いったいどのようなル−トを使用したのであろうか。
『安西軍策(あんさいぐんさく)』(毛利家に関する軍記=国書解題上、59頁)によれば、「(上略)竊ニ宮崎ヲ惑出明石ノ浦ニ漕寄。宇喜田和泉守ヲ頼マレシカドモ、難二面持一ケレバ暫ノ御逗留モナク。其ヨリ備後ノ鞆ニ着」(後鑑4/新訂増補国史大系37.889頁)とあって、興国寺を北上して、10数キロ先の在田川の河口部の宮崎浦(有田郡)より乗船し、明石浦に漕ぎ寄せたという(途中いずれかの泊に寄港したかは不明)。
一時上陸した義昭は、備前に威を振るう宇喜多直家を頼ったところ、身柄の受け入れには賛同されなかったため、明石での宿泊もなく、ただちに備後鞆浦にむかった。この記事の問題点は、明石の浦に到着して、さっそくに宇喜多の意向が打診できたことであろう。
明石の浦に、宇喜多の関係者が配置され、諾否の回答をしたとは考えられない。しかしながら港町には、水上交通の関係者が居を構え、彼らを通じて各地の情勢を把握することは可能である。明石川河口部右岸の船上には、当時、国人明石氏の一族で、のちに豊臣水軍の船奉行をつとめる、石井与次兵衛なるものが存在した。彼は翌天正5年(1577)3月13日付で、尾道の浄土寺に一対の大型の絵馬を奉納する。尾道は瀬戸内海航路の要衝にあり、毛利氏の支配下にあった港町である(『明石ゆかりの人びと』77−8頁)。このような事実から、石井与次兵衛は毛利の領国内との経済交流に従事していたと推測され、備前・備後の状況は、把握していたと思われる。おそらく足利義昭一行に情報を提供できたのは、上述のような人物であったろう。
(43)和坂の稲荷神社
東は国道175号線、北はJR神戸線、西から南にかけては国道2号線に囲まれた三角地帯に、和坂稲荷町がある。そこには近世以来、稲荷神社が鎮座していることは、知られている。国道175号線より、住宅にはさまれた参道を30メ−トル程歩くと、まず15段、それを越えると、さらに30段の石段がたちはだかる。なんとかクリアすると境内に至る。境内の東南部には、目指す記念碑(駐輦所)があった(今回の調査には、明石市立博物館の三浦友紀子氏の協力を得た)。
大正8年(1919)11月11日より15日まで、西攝から東播にかけての平野部において、陸軍特別大演習が実施された(以下、『史蹟名勝天然記念物』36−8頁による)。大正天皇は、10日の午後3時20分に須磨仮駅に著車。ただちに大本営の武庫離宮(現在の須磨離宮公園)に入る。11日には日岡山(加古川市)に行幸。翌12日、大本営を午前6時40分に出門。同50分に須磨仮駅を発車。7時10分に明石駅著車。このたびの大演習には、東宮(昭和天皇)も参加され、小雨のなか、明石駅から鹵簿で進まれる天皇のあとを、乗馬にて扈従され、午前7時35分に稲荷山にいたる。この地で演習を観戦され、8時10分には稲荷山の西300メ−トル余の高見山にうつられたと記録されている。
大正10年(1921)、この行幸を記念して、記念碑を建設する。碑面には
(表面) 駐輦所
(側面) 大正八年十一月十二日
陸軍大演習挙行
玉木愛石謹書とある。現在、神社境内以外は、宅地化の波に押し包まれている。
(44)光触寺の太閤松
太閤松(大久保、光触寺に有り。太閤本陣の跡なり)
これは文化元年(1804)4月、大坂の書林(柏原屋清右衛門・柏原屋与左衛門・勝尾屋六兵衛・塩屋忠兵衛)が刊行した『播磨名所巡覧図会巻2』において、紹介された大久保地域の名所の一つである(『日本名所風俗図会』13.69頁)。当時の光触寺(こうそくじ)内に松の古木があり、いつの頃からか、太閤本陣の跡という風説が定着し、『播磨名所巡覧図会』に収載されたものと考える。
天正5年(1577)10月23日、中国攻めの司令官として出京した秀吉は、山陽道を下り、途中、伊丹城主荒木村重が800余人を率いて先導し、播磨入国となる(武功夜話1.436頁)。しかも光触寺門前を通るは太山寺道なのである。
翌6年(1578)3月からの三木合戦により、播磨とはゆかりの深い人物となる秀吉。しかしながら彼が光触寺に本陣を設置したという明証はない。
同4月18日、尼子勝久籠城する上月城に、吉川元春・小早川隆景を中心とする毛利勢が包囲攻撃をしかけた(萩藩閥閲録3.465頁)。秀吉は信長に援軍を乞う。5月1日、織田軍の播州出陣が発令された。総大将の織田信忠(信長嫡男)は、尾張・美濃・伊勢3国の軍勢を率いての出陣となった。その日は郡山(茨木市)に宿泊。翌2日は兵庫。「六日には播州の内明石の幷大窪と云ふ在所に御陣を居えられ」(信長公記巻11)とあって大窪に駐屯したことがわかる。このとき先陣は、加古川近辺に野営したという。市内最大の瓦屋根を持つ光触寺本堂こそ、信忠本陣にふさわしいものであったろう。信忠は本能寺の変において、二条城にて父信長に殉じて歴史の舞台から消え去る。のち天下人となつた秀吉に、歴史事実が仮託されたのであろう(今日、その切り株は「太閤腰掛松」として保存されている)。
(45)寂蓮と明石の浦
さびしさはその色としもなかりけり真木たつ山の秋の夕暮
これは西行法師・藤原定家とともに『新古今和歌集』に収載され、広く人口に膾炙された三夕の和歌のひとつで、寂蓮法師のものである(新日本古典文学大系11.117頁)。
寂蓮は、醍醐寺の阿閣梨俊海の子で、伯父藤原俊成の養子となったものの、成家・
定家が生まれ成長するに及び、やがて養子を辞し、承安2年(1171)ごろ出家したといわれる。諸国(出雲・大和・高野・有馬の湯・芦屋など)遍歴の旅を続け、嵯峨をその住まいとする。すぐれた歌才を後鳥羽上皇に重用され、建仁元年(1201)7月和歌所設置とともに寄人の一員となり、同年11月3日『新古今和歌集』の撰者六名の中に名を連ねたものの、翌2年(1202)7月20日ころ死去(大日本史料4−7/国史大辞典7/日本古典文学大辞典3)。
彼は上皇(後鳥羽)のそば近く仕えるようになって、「播磨国あかしの浦のほとりに領所給て」とあって(源家長日記/大日本史料4−7.496頁)、明石浦の周辺に所領をもっていたことがわかる。
明石の浦の周辺とは、どのあたりをさすのだろうか。まず「浦」の立地条件を考えるに、『広辞苑』によれば、
海や湖の湾曲して陸地に入り込んだ所。「田子の―」
一般に、海辺。また、みずぎわ。「―の苫屋(トマヤ)」とあって、東は舞子から、西は明石川の河口部にいたる湾曲した海辺を、明石の浦と位置づけることができる。人丸山(現在の明石城公園)や町屋の大蔵谷は対象外であろう。かつては清盛の山荘が存在した、山田川の下流域を含めた地域が、寂蓮に与えられたのではなかろうか。
(46)人丸社の筆柿
近世明石城下における「歯痛」の妙薬(民間療法)としては、明石七仏薬師の一つである、長林寺の本尊の薬師さんが所持する楊枝を咀嚼すれば、効能が発揮されるということは、以前に紹介しておいた。ところがここにもう一つ、歯痛に有効な療法とされるものが伝承されている。それは現在の柿本神社の神木「筆柿」に関するものである。
むかし、柿木人麿が石見国から京の都へ向かう途中、明石に立ち寄りました。丘陵から見える明石海峡、淡路島の美しさに感嘆して、持っていた柿の種をここに植えました。そして「和歌の道が栄えるように、柿も育ってくれ」と祈ったのです。
この柿の木は年々大きくなり、実をつけましたが、筆の形に似ていることから、御筆柿と呼ばれるようになりました。この実を口にふくむと歯の痛みがとれ、妊婦がふところに入れていると安産だといわれています(『あかし昔ばなし』126頁)。
筆柿というのは、近世200種類もあるという和産の柿の一つで、「長サ二寸半許、濶サ二寸弱ニシテ、頭尖リテ筆頭ニ似タ」るところから命名されたもので(重修本草綱目啓蒙/古事類苑植物部1.611頁)、別名「鹿心柿」(やまかき)ともいう(和漢三才図会/同書610頁)。石州人丸社の傍にあるのが名産とされ、まさに人麿が赴任地の石見から持参してきた柿は、石州産のものであった。筆柿は、青くても渋みがなく、10月には賞味することができたという(重修本草綱目啓蒙/同書)。初冬になると、歯痛に悩む者は柿を口に含み、妊婦はその幸せのために、たわわに実った筆柿を、そっと懐にしのばせる光景が、神社の風物詩になったことであろう。
(47)谷八木川
先日(平成15年7月27日)の神戸新聞明石版(朝刊)において、「国内河川のワ−スト5圏内の〃常連〃だつた谷八木川の水質が、二〇〇二年度の年間調査で、環境基準を二年連続で達成したことが、市が二十六日までにまとめた環境調査報告でわかった」という朗報が掲載されていた。
これまで注目をあつめてきた谷八木川ではあるけれども、実は、400年前の三木合戦当時にも、その存在が歴史的にも重要な意味を持っていた。『明石市史下』に収載された各寺院の由緒を見るに、その所在地(市内)が谷八木川の東と西では、まったく対照的である。以下、個別寺院について抄略してみよう。
月照寺(人丸町----羽柴秀吉が三木城主別所長治を攻める時、秀吉は人丸塚に詣で
て軍利を安室に祈らせた。三木落城の後、天正九年高三十石の社領を寄付)
十輪寺(西新町----豊臣秀吉が三木城攻撃のとき、戦勝を祈念したと伝えられ)
西光寺(大久保町西脇----天正年中羽柴秀吉が三木別所氏を攻撃中兵火によって
焼亡)
来迎寺(大久保町八木----天正年中三木合戦のとき、羽柴秀吉の兵火にかかり本尊
は大般若経の中にかくされて難をさけられた)
遍照寺(魚住町長坂寺----天正七年九月三木合戦のとき再び兵火のために焼かれ)
金輪寺(天正虚乱に再び炎上)
あくまでも「由緒」(伝えて来た事由=広辞苑)であるとはいえ、谷八木川の西部(魚住氏支配)は秀吉の兵火にかかつたことが主張され、逆に東部(明石氏支配)では、秀吉の恩恵に浴している。両者の相違点は、魚住氏は三木に入城し、明石氏は小寺(黒田)孝高と従兄弟の関係から、秀吉陣営に参加したことによるものであるといえよう。
(48)明石共就社
明治14年(1881)6月10日の朝野新聞には、同5日明石藩旧士族の合資により設立された、共就社の開業式の様子を、次のように報じている(『明治ニュ−ス事典』2.5頁)。
今度兵庫県下播州明石の士族五百余名が協力合資して、各産業に就き生活の道を立てんと創立せし織工場は、土木の功を竣え社名を共就社と号し、去る五日を以ってその開業式を行えり。同県令森岡昌純、一等属加集寅次郎、授産掛り山工女六十余名出場の上、各祝文の朗読或いは演説をなし、式おわりて一同祝酒を傾けて退散としとの報あり。
明治新政府の最大の課題のひとつが、「廃藩置県により身分を失った者への補償公債」の発行である(『岩波日本史辞典』)。要するに有禄武士への退職金であった。
明治11年(1878)1月、兵庫県の有禄士族6,895名に支給された、一人当たりの平均支給額は542円余という(『明石市史』下.66頁)。このころの3,000円が、現在の1億円ともいわれており、ざつと1,700万円程度となる。これではゆとりのある生活は望むべくも無い。大多数の武士がプロレタリア化したという。
「虎の子」を出資して立ち上げた共就社であったけれども、その半年後の10月21日、松方正義が大蔵卿となり、いわゆる松方財政(デフレ政策)の逆風に直面。明治19年(1886)には消滅してしまった(同書72頁)。経営の指揮をとった人物にその責任を問うつもりはない。しかし、この10年のちに鐘紡兵庫工場が操業を開始。19歳で米国留学。苦学した武藤山治の経営手腕により躍進したのを見れば、時の流れというべきものであろうか。
(49)明石城保存の顛末
明治4年(1871)7月14日、明治天皇が、56の藩知事を招集して、廃藩置県の詔書を示すことにより、藩は消滅した。その2月後、旧明石城内の樹木や、建造物の道具などが売却されたという(以下とくに出典を明記しない場合は、『明石市史下』)。
明治6年(1873)1月14日、廃城令の公布により、軍事上の要衝にも該当せずと判断された明石城は、大蔵省の所管となって癈城の運命をたどる。翌7年(1874)5月7日、内務大丞は、二の丸に変則仮中学の設置を認可。これが飾磨県立有文中学として開校の運びとなる(「明石市年表」)。このあと意外な展開が待ち受ける。
兵庫県は、明治9年(1876)の布達をもって、明石城の入札を実施。多くの士族が入札に参加するも、さいわいにも士族の高橋房男が落札者となって、一安心。しかしながら県は、一方的にこの布達を取り消したため、落札者の高橋は、再三県に布達の実行を嘆願するも、県側の、城楼の取り潰しはなしとの説諭でもって、ひきさがらざるをえなかった(『明治ニュ−ス事典』2.6頁)。
ところが明治12年(1879)6月28日付の朝日新聞には、イギリス人シンキ−ルなるものが、旧城跡を公園にと、兵庫県に願い出たことが報じられるも、その後何の展開もなく、この話は煙滅(同書.5頁)。
とどめは明治14年(1881)。県は湊川神社の傍に、建設予定の相生学校の用材確保のために、城内の建造物を払い下げ、関係者が人夫を引き連れ、解体を始めた(明治14年8月20日付東京日々新聞/同書5頁)。おどろいた旧士族達は、諸所に集会し、大明石村士族総代宮崎柳太郎ら14名は、8月16日付の「当城内現状保存の儀願い」を、兵庫県令森岡昌純宛に提出。「書面願いの趣きなにぶん詮議に及ぶべく候条、将来維持方法等取り設け、更に願い出ずべき事」で落着となる(明治14年8月26日付東京日々新聞/同書6頁)。
(50)長林寺の千部経
須磨寺の古記録『当山歴代』によれば、寛永5年(1628)3月21日よりおこなわれた長林寺(材木町)での千部経に、不動坊・大聖院・宝性坊・花厳院・兵部卿・中納言の6人が参加している。もちろん主催者は、明石藩主小笠原忠真である(同書138頁)。
千部経とは、千部読経のことで、「同じ経を千人で一部づつ、あるいは一人で千遍」を読み、千部読経をする法会を、千部会という(『仏教語大辞典』下.834頁)。千部会の目的は、「追善や祈願」であり、小笠原忠真の意図するところはなんであったのか。
『明石市史年表』より、小笠原忠真の明石新城への入城(元和6年)から、寛永5年までの主要14項目のうち、人丸社関係が5項目ある(『明石市史上』)。周知のように、明石城地選定に関しては、塩屋・蟹坂・人丸山の候補地のうち、人丸山に決定の事情については、「明石の史跡34」(「サンピアニュ−ス」122)でふれておいた。古くから明石の人々の信仰を集めた人丸社を、現在の場所に移動させたことにたいする、鎮座と安寧への祈願。これも千部会の目的のひとつであったものと推察したい。
天台宗長林寺での千部経に、近世以前には天台宗であった須磨寺(福祥寺)の僧侶6名がなぜ参加しているのだろうか。藩内の天台の各寺院から召集された僧侶では、不足したのかも知れない。慶安元年(1648)6月27日、華厳院住持真源は、御朱印拝領のため江戸に下向。そのとき高野山無量寿院の御添状申請しており、無事目的(御朱印拝領)達成した(前掲書140頁)。高野山は真言宗であり、このとき須磨寺は、幕府より公式に真言宗と認定されたのであろうか。そうすれば、寛永5年の時点で、長林寺の千部経に参集したのも理解できよう。
日本歴史学会会員 茨木 一成
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