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■明石の史跡


明石の史跡

日本歴史学会会員
茨木 一成

 もくじ   1−10  11−20   21−30   31−40   41−50
      51−60  61−70   71−80   81−90   91−101


(31)平重衡と明石

 山陽電鉄須磨寺駅の改札口を出ると左側に、「平重衡とらはれの遺跡」の碑文が目に飛び込んでくる(須磨の歴史295頁)。平重衡といえば、清盛の5男で、宗盛・知盛の同母弟。以仁王の追討(治承四年)、墨俣川の合戦などに武勇を誇り、とりわけ東大寺・興福寺の焼討は著名である。須磨寺周辺は、さすが源平古戦場に近いところであると、なんとなく素直にうけとめてしまう。
 『平家物語』によれば、寿永3年(1184)2月7日の合戦当日、生田川の防衛ラインを突破されて、主従2騎となつた重衡。梶原景季・庄四郎高家の追撃をうけるも、屈強の名馬にまたがり、「湊河・かるも河をもうちわたり、蓮の池をば馬手に見て、駒の林を弓手になし、板やど・須磨をもうちすぎて、西をさいてぞ落たまふ」(日本古典文学大系45.172−3頁)とあって、須磨は通過している。どこまで逃げおおせたかは不明とはいえ、ついに馬の後足の上部を射ぬかれ、進退きわまったとき、重衡の従者は、自分の馬の提供を命ぜられるものと判断。主人を置き去りにしてそのまま西走。残された重衡は捕虜となった。
 一方、現地からの報告をまとめた、勝者の側の記録(吾妻鏡)には、重衡は「於二明石浦一」生け捕られたと明記されている(新訂国史大系吾妻鏡同日条)。「須磨をもうちすぎて」とあるので、明石浦の方が、信憑性があるように思われる。
 それでは須磨寺駅にある碑文の根拠はというと、文化元年(1804)4月刊行の『播磨名所巡覧図会』に、頼政薬師(須磨寺駅東北100m)の西に、「重衡松」の存在が明示されている。さかのぼって、元禄14年(1701)1月刊行の『摂陽群談』には、須磨寺門前に、本三位中将重衡の腰掛松の俗伝が記載され、その松は枯れたとある。100年後に「重衡松」が復活し、さらに……、いやそこまでは考え過ぎであろうか。

 


(32)本多政利と瓜坊

 歴代の明石藩主のなかで、廃藩置県により藩主の座を返上した17代松平直致(なおむね)以外は、就任期間が平均14年半。なかでも7代目の本多政利の、足掛け4年というのは異例というほかない。種々の不行跡が取り沙汰されているものの、現状では決め手に欠けるようである。
 藩主本多政利は、大力者として高名で、なおかつ大食でも知られ、「人には珍敷生れなり」と評されている。彼は、毛に紋のある瓜坊を好んで飼育した。ただ牙の先は削って丸くして、おそらく城内(殿中)放し飼いにしており、随分と成長したようである。猪の子供のことを、「江戸にて瓜ぼうといふ、畿内にてこぶりことよぶ」
(物類称呼/岩波文庫32頁)とあって、現在では、江戸での表現が一般化している。
 ある時、近習の士が、成長した猪をもてあそんでいたところ、急に駈けだし、野田本庵という医師を掛け倒してしまった。医師はその場に臥せってしまい、取り押えようとした近習の者が、これまた数人掛け倒され、ついに殿にまで乗り掛けようとした。ところが政利は、あわてず笑いながら、猪の頭を股に挟んで締めつけたため、動きを封じられた猪は、目・口より血を流しつつ、即死の状態であつたという
(明良洪範=めいりょうこうはん/広文庫11.937頁)。恐るべき力と表現するしかない。
 元禄直前の、社会のシステムが完成しかかった時代には、物腰の穏やかで、人間関係の維持に巧みさが求められ、なおかつさわやかな弁舌が尊重される世の中に、猪を即死に追い込む大力は、人々に一舜の驚きは与えるが、それ以上のインパクトは期待できなかつたろう。乱世ならば、このような自己表現は、また別の存在感があつたと思われるのに……

 


(33)明石尚行の大力

 将軍家の家督相続をめぐり、大乱必至となった応仁元年(1467)5月10日、嘉吉の乱以降、山名氏に奪われた播磨国を奪還すべく、赤松政秀は播磨で活動を開始する。
 一方、13歳の当主−赤松政則は、5月26日から始まった両陣営の合戦において、昼夜4日にわたり、廬山寺の南、一条大宮の館で奮戦する細川勝久を救援すべく、300余人を率いて、正親町を下り、猪熊を上へ馳せ上り、斯波義廉方の甲斐・朝倉・瓜生という越前勢に切りこみ、廬山寺の西まで追いこんだ。
 その時、西軍の新手として登場した山名教之勢にたいし、赤松方の浦上・小寺・依藤らの諸将が奮戦。なかでも依藤豊後守は、山名教之の一族、(定本名将言行禄)山名常陸介と引き組んで首を得た。同じく、山名教之の郎等で、大力者として知られた片山備前守は、明石越前守尚行と戦い、首を奪われた。片山の傍輩である山名孫四郎も同じ運命となる。二つの首をとった尚行も、片山に劣らないほどの大力者であった(重編応仁記)。大力というのは「すぐれて強い力。また、その力ある人。強力。怪力」(広辞苑)をさす。
 播磨国の大力者といえば、元弘3年(1333)4月3日の洛中合戦において、赤松円心麾下の妻鹿孫三郎長宗が、六波羅勢に追撃され、西朱雀をさしてひきあげる途中、追走してきた20歳前後の若武者を、馬上から、鎧の総角(あげまき=鎧の胴の背の二枚目の板に環を打ってつけた揚巻結の太い組み緒で、総を太く長くしたもの)を掴んで、宙に浮いたまま、3町ばかり走り、深田の中に投げ捨てた話が想起される(太平記1/日本古典文学大系34.266頁)。明石にもこれに匹敵するような「大力者」の系譜が存在したことは、楽しいものがある。

 


(34)明石城地の選定

 元和3年(1617)7月28日、上洛中の秀忠は、信州松本の小笠原忠真を、明石城(船上)に移封を決定。しかし2万石の加増を受け、10万石の大名としては、船上の地は手狭であったのか、翌4年(1618)2月に、秀忠は新城建築を命じた(史料綜覧15)。そこで城地の選定の儀が浮上。次の3か所が候補地となる(清流話、以下に出典を明記しない場合は同書による)
 @塩屋(古城より20町余り東)
 A蟹坂(古城より10町余り西)
 B人丸山(古城より10町余り東北)
上記の各場所は、いづれも山陽道の沿線であり、候補地となった歴史的背景を考えてみたい。
 嘉吉元年(1441)8月19日、将軍義教弑逆ののち、播磨に下向した赤松満祐は、塩屋(神戸市垂水区)に関を設け、東方よりの防禦施設としていたが、細川淡路守持親による海上攻撃に、もろくも敗退する(建内記)。塩屋川河口部の200m弱の平地に、山陽電鉄・JRの各塩屋駅、国道2号線、そして海浜。これでは城下町の建設には不向きである。
 蟹坂(現和坂)は南北朝以来、南軍の侵攻をよく防いでいるものの、加古川まではほぼ平地であって、大川などのような、天然の要害にはめぐまれず、かりに人工の防衛施設の構築となれば、経済的負担も軽視できない。
 人丸山(現明石城本丸跡)は、東は山下町と人丸町の間には谷筋があり、南は大手門から数百メ−トルで海に達し、西に明石川、北は伊川という立地条件に恵まれ、さらに人丸祠の北西にある鴻ノ池(現剛の池)という淵の存在は、城地の決め手にプラスしたようである。岡山から西には、外様の雄藩がつらなり、姫路城の支えとしての明石城は、幕府としては重要な意味を持つのである。

 


(35)明石定明の行状

 鳥羽院政下の康治2年(1143)7月24日、所は内大臣正二位藤原頼長(24歳)邸。権大納言正二位藤原宗輔(67歳)が来談して曰く、故堀川院の時(応徳3〜嘉祥2)、滝口(平安時代以降、蔵人所に属し、宮中の警衛に当った武士。寛平年間創設=広辞苑)右馬允定国という者がいた。彼は笛・笙などの修理に能力を発揮したので、召し使っていた。崩後の堀川院が竜王となり、北海にあると聞き、院の後を追いたいと話していた。
 それから8〜9年が経過。ある日、定国の子定明が自分(宗輔)のもとへ消息をもたらした。それによると、定国は美作国へ下向し、出家の後、竜頭の船を造り、仏・経を載せ、南風のはげしい折りに、北海へ向けて旅立ってしまった。子息(定明)としては、旅立ったその日を忌日としているのだという(台記同日条、台記は藤原頼長の日記)。ここまでの話では、律儀な臣下としての存在を意識するのである。
 舞台は、堀川院領美作国稲岡荘(岡山県久米郡久米南町)に移る。話は藤原頼長邸での来談の2年前にさかのぼる。保延7年(1141)の春、当荘の預所(荘園で領家=領主の代理となって荘務すなわち荘地・荘官・荘民・年貢などを管理する職=広辞苑)であった明石定明は、以前からの確執に決着をつけようとしたのか、当荘を含む久米南条の押領使(平安時代、兵を率いて国内の凶徒を鎮圧する、令外の臨時の官=広辞苑)漆間(うるま)時国の館に夜討をかけた。この時、9歳になる時国の一子が放った箭は、定明の眉間に命中するも、落命には及ばなかった。生き残った少年は、館から東北に10里の山中にある菩提寺に入り、定明の追撃を免れた。父時国、臨終の際の遺言は「復讐の断念」を示唆するものであつたという(田村円澄著『法然』《人物叢書》10−5頁)。明石定明の討ち洩らした9歳の少年こそは、後の浄土宗の開祖−源空(法然)であった。

 


 (36)景勝の変化

 文治元年(1185)8月24日、源範頼にしたがって、平家追討に功績のあった下河辺行平は、頼朝よりの恩賞の意思表示にたいし、明石等の「勝地」がある播磨国守護職を所望し、頂戴に及んでいる(吾妻鏡)。「勝地」とは、「けしきのよい土地。名勝。名所。」(広辞苑)をさす。彼は、山陽道を西下して、鎮西にいたっており、各所の風景を目にしてきたにもかかわらず、この坂東武者をして、明石を凌ぐほどの場所には遭遇しなかったようである。こうした自然の景色の美しさは、いつごろまで、讃えられたのだろうか。
 「播磨名所巡覧図会」をひもとくに、「名所明石浦(郡中海辺の惣名なり)」に続けて、古歌が7首ほど列記されているだけである。それにくらべると、舞子の浜は、「この地古歌なければ、必ず名所といふにはあらず。されども名高き事天下に聞こえたり」とあって、あまり旗色がよいとはいえない。神社・仏閣の紹介に当てられたスペ−スにくらべれば、微々たるものである。風景よりも人工的なものに関心が移っている。
 ア−ネスト・サトウが記した『明治日本案内上巻カルチヤ−編』(序文は明治14年2月1日付)によれば、「(神戸より)十二マイル先にある明石(旅宿、大坂屋)はかつて松平兵部大輔という「大名」の城下町であった。城の大半は破壊されたが、その濠と敷地は訪れる価値がある。城を見学する許可は神戸で容易に得られる。明石で最も注目に値する神社は日本の古い詩人人麻呂を祀ったもので、彼は旅の途中で明石の町にその風景をたたえた三十一文字の歌を残した。明石へ足をのばすなら舞子で昼食をとることをお奨めする」(同書93頁)という。明石の観光の目玉は、人丸神社と明石城跡である。これは今日も変わらない。ただ「舞子で昼食」というフレ−ズには、食文化への対応の弱さを指摘されたものだろうか。

 


 (37)幻の明石離宮

 明石市の下水道の歴史は、前身たる明石町時代に始まる。明治32年(1899)6月8日、豪雨による浸水被害が、明石町の過半に及んだ。主因は、下水溝の不備であった。同月22日に、宮内省よりの下賜金300円が、下水溝改善へのきっかけとなった(明石市史下.294頁)。宮内省によるこのような対応は、前年(明治31)10月5日、明石城跡の全域が、皇宮地付属地に編入されたという事情を無視することはできない(明石公園百年史108頁)
 具体化への歩みは、明治42年(1909)になって加速する。この年町会では、下水道築造調査費を議決。6月には兵庫県技師の佐藤長太郎に調査監督を、岩淵宗に実測を各嘱託。翌43年(1910)5月の調査完了をまって、町会では下水道築造の議が議決をみることになる(日本下水道史−技術編.78頁。この項は山下俊郎氏の御示教による)
 明治44年(1911)・2・11、明石町民は、「明石離宮内定」というスク−プ記事を見て驚くことになる。
  [二・一一、大朝]明石離宮 〇豫て離宮の御用地と内定し居れる明石舊城内に、今回愈愈離宮を御造営相成るやにて、福羽内苑頭は三月中旬実地調査の為同地に出張する由なるが、右は来る五十年の大博覧會開始までに日本国風の御殿を御造営相成り、生として外国貴賓の御宿泊所に充てらるるものなりと承る(新聞集成明治編年史14.373頁)
 この朗報も、翌明治45年(1912)7月29日に明治天皇が崩御。翌日大正天皇の即位となり、うたかたの泡のごとく消滅してしまう。もし離宮が実現していれば、町のイメ−ジは格別のものとなっていたことであろう。

 


 (38)明石珠

 明石の産物といえば、近世においては、糯米(もちごめ)・粳(うるしね)・綿布・竹子・笠・藁席(むしろ)・穂蓼(ほたで)・焙炉具(ほうろく)・蛸壺・縮に加えて、鯛・蛸・鰯・鯔(ぼら)や瓜、楊梅実などが挙げられる(播磨名所巡覧図会/日本名所風俗図会13.65頁)
 しかし明治になると、地場産業的なるものが発達してくる。その代表的なものの一つが、明石珠であった。
 天保年間のある日、江戸の鼈甲細工業の小島岩三郎は、讃岐の金毘羅詣でを思い立ち、明石まで来たところ、船待ちかどうかはわからないけれども、しばらく明石に逗留していた。その「滞在中鶏卵の蛋白質凝結して固形体となりしものを原料とし、これに工夫を凝らし」て、練玉の発明にいたる。発明者の岩三郎は明石に腰を落着け、製造をはじめ、「明石珠」なるものを完成する。製造法は若干の人に伝授したものの、本人は、万延年間に死去した。
 「明石珠」は、簪の「玉」の部分にあたり、きわめて精巧なものであつたらしく、一名を「擬珊瑚」と呼ばれ、本物の珊瑚珠のなかに混ぜておいても、真偽の識別が困難を極めたというぐらいの、すぐれものであった。
 明治20年(1887)には、職工37人。製造数額は536,780箇を数え、その隆盛のほどがうかがえよう。国内の販路は、東京・京都・大阪・名古屋・神戸を対象に、低価格の商品が中心であった。それにたいし、中国向けの輸出品は、需要者の好みに応じて製造されたといわれ、品質良好で、高値の価格で取引され、「その商況はすこぶる繁忙を極め」たと報ぜられている(明治21年12月26日「官報」/明治ニュ−ス事典4.634頁)

 


 (39)明石武家屋敷の犬

 山陽電鉄明石駅周辺の立体交差にともなう、武家屋敷跡の発掘調査によると、近世(17世紀前半以降)における武士階級の食生活(肉食)の一端が、明確にされたことである。とりわけ犬に関しては、明らかに解体・調理した痕跡の明白なものが多く、ことに側頭骨に穴をあけて、脳髄を摘出したと考えられるものまで報告されている(明石城武家屋敷跡/兵庫県文化財調査報告109.132頁。この項は山下俊郎氏の御示教による)
 永禄5年(1562)来日し、信長・秀吉にも謁見し、慶長元年(1596)長崎で没(65歳)したルイス・フロイスは、豊かな知見をもとに、天正13年(1585)執筆した著書のなかにおいて、「われわれは犬は食べないで、牛をたべる。彼らは牛を食べず、家庭薬として見事に犬を食べる。」(ヨ−ロッパ文化と日本文化/岩波文庫102頁)とあって、犬を食することが、すくなくとも武士階級においては、なんら不思議ではなかったことを示唆する。 
 元禄3年(1690)3月、明石藩三木郡小川組大庄屋安福武重は、「天下一同ニ犬之義大切ニ被遊、国々在々迄御憐被 仰出候事」と記録しており(累年覚書集要14頁)、犬食の習慣にブレ−キがかかったことはいうまでもない。これに追い討ちをかけるように、享保の末頃より、駿河・遠江あたりでは、病気を持った犬に噛まれると、まるで犬のごとくに狂い死にすることが伝わり(煙霞臾談/広文庫2.1031頁)、食生活の幅が狭められたことであろう。調理方法については、不詳というほかないけれども、薩摩での「えのころ飯」(子犬の腹中の臓物を取り出し、かわりに米をいれて針金でくくり、竈の火で焼く)も選択肢のひとつでは----と考えている(一話一言補遺/広文庫2.1040−1頁)

 


 (40)区長の必需品

 ここに大正14年(1925)10月14日付の、魚住村役場より中尾区長(山崎政助)宛の通達がある(山崎眞一家文書)。10月1日の第二回国勢調査も無事に終了。好天に恵まれるであろう10月の20日に、優良村の視察が計画された。定数は、当村(魚住村)より2〜3名(ということは区長が対象と考えても差支えはない)。ただし希望者が定数を上回れば、抽選となる。視察地は美嚢郡淡河村南僧尾(神戸市北区)。
 当日は、午前8時半に神出村役場(直線10キロ余)に集合。9時に出発し、目的地(直線16キロ余)に向かう。交通手段は、往復ともに自転車であった。なお参加者には、一人当たり1円50銭の弁当料が支給されている。
 明石に自転車なるものを導入したのは、中町の呉服店の主人が、神戸で購入したグリンランド号(320円)が最初とされ、明治29年(1896)のことであった。わが国に自転車なるものが上陸してから、15年を経過していた。練習しながら帰路についた呉服店の主人は、明石にたどり着いたときには、それなりに乗りこなしていたのだろう。
 明治34年(1901)頃には自転車店が出現。それでも庶民には手が届きにくいものであつたろう。明治40年(1907)10月から、明石相生町で布教していた、アメリカ人のク−パ−牧師は、巡回には自転車を使用していたという証言も残されている(明石市史下.93頁)。それでも自転車は、珍しいもので、また庶民には、簡単には手が届きにくいものであったろう。
 上記の区長たちが、自転車を連ねてさっそうと、視察に赴く姿は、もはや貴重品ではなく、行政担当者の必需品であったことを示すものであろう。今日、著名な自動車メ−カ−(ポルシェ)の製作した自転車は28万円と聞き及ぶ。彼ら区長たちの乗った自転車は、どの程度のレベルのもであったかは、少々気がかりでもある。

 

                   日本歴史学会会員     茨木 一成




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