| ■明石の史跡 |
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明石の史跡
日本歴史学会会員
茨木 一成
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(21)橋本関雪の玉垣
神社(二見町東二見1323)を散策し、先日、所用により御厨ていたことろ、思いもかけず、橋本関雪の玉垣(皇居・神社の周囲に設ける垣=広辞苑)が視界に飛びこんできた。昭和9年(1934)5月の、社殿葺き替えに際し、関雪は「金百円」を奉納している。この年は東北冷害・西日本旱害に続く、室戸台風(9月21日)の災害などにより、明治43年(1910)以来の凶作に見舞われた大変な年であった(農林省統計表/年表日本歴史6)。
社伝によれば、御厨神社は「神功皇后の三韓出兵のおり二見浦に船を休ませ、兵糧を集めたことから社名を御厨と称したという。長暦年間(1037−40)に東二見と西二見の境にあった卯の花の森に移り、君貢(きみつぐ)神社から八幡宮と天満宮を遷座、この頃より二見の鎮守となった」といわれる(兵庫県の地名U.149頁)。『播磨艦』には天満宮と記され、御朱印社領は40石とある。
関雪は、明治16年(1883)神戸生まれ。父は旧明石藩の漢学者で、『明石名勝古事談』の著者。画才は父の影響といわれ、同41年(1908)文展に初入選以来、大正7年(1918)には、「寒山拾得」「倪雲林」「木蘭」が連続特選を獲得し、注目を集める(国史大辞典11)。
関雪と御厨神社を結びつけたものはなんだろうか。神社の東南400メートルのところに、地元の人達が「関雪さんの別荘」と呼んでいた「白沙荘」(播磨灘に面した高台の景勝地に建てられ、現在は民間企業の所有に帰している)があり、こうしたことから、玉垣奉納に結びついたものだろうか。筆者の義兄(昭和8年生)は、幼少期にこの別荘の庭で遊んでいたところ、関雪本人に3度ほど対面した経験をもっており、避暑には利用されたものであろう。
(22)神戸女学院の東方移転
ゆたかな敷地を確保しながらも、女学院大学部は転進の道を選択したのだろうか。まず募金の事情によるところがおおきかった。アメリカでの募金目標(70万ドル)の達成に時間を要し、大正15年(1926)末までに、目標額の3分の1(20万ドル)にもおよばなかった。
募金活動の成果が、十分ではなかったために、学校を2か所(大学部と高等部)にわけての経営には、困難を感じざるをえなかった。それは大正13年(1924)3月、中部婦人伝導会総幹事リー夫人の現地視察をふまえての意見である。しかし同窓会の大蔵谷にたいする意向は、簡単には逆転できなかった。
同窓会とは別に、一般教職員の内には、明石移転への反対が強かった。英語科主任飯塚恒太郎教授は「日本の青年は都会の学校にあこがれるのに、神戸の繁華が明石に及び大蔵谷が都会化する見込みはなく、生徒が文化を摂取し社会的に訓練される機会が得られない」という指摘は、移転派に強烈なインパクトを与えた。
大正15年12月、財団法人神戸女学院設立の認可を獲得。翌昭和2年(1927)4月には、大蔵谷敷地の買収が終了し学院に寄付した。
同年11月7日、臨時理事会は校地委員会の答申にもとづき、全学東方移転を決定する。@山本通の校地・校舎及び大蔵谷の敷地をすべて売却し、Aその代金の一部をもって新たに神戸市の東方、阪神間の住宅地域に敷地を買得し、B残りの金額を新校舎の建設費に加える、という方針が確立。
昭和5年(1930)3月、学院は岡田山(西宮市)に新敷地を獲得。学舎建設については、竹中藤右衛門氏(竹中工務店)の好意(岡田山の購入代金を提供、大蔵谷敷地を引き取る)により、今日の基礎が造られたのである(神戸女学院百年史総説169−72頁)。
(23)明石藩の忍者
享保16年(1731)年正月に書写された、「御家中知行高忸役附」によれば、家中415人のなかに、山田庄左衛門(15俵3人扶持)なる「シノビ」の存在をしることができる(兵庫県史史料編近世1.142頁。以下特に出典を明記しない場合は同書)。
姫路藩(池田輝政時代)でも同様のことが指摘できる。たとえば、譜代の番大膳(1000石)の組下には、伊賀者10人。服部中屋(200石)は伊賀者20人を抱えたのを含め、総勢60名(すべて伊賀者)をかぞえる。赤穂藩は、例の元禄14年(1701)の「赤穂分限帳」には、横目として神崎与五郎をふくむ、5名の名前をみることができる。
忍者はその能力を発揮するには、敵陣に潜入した時は、諸道具(旗指物など)を持ちかえると同時に、また「先にも何やう成印を仕り置候」と、報告することが、有能の証明になる(細川幽斎覚書)。
山田庄左衛門の主君は、藩主の資質を問われた、第7代本多政利であり、あしかけ4年にわたる藩政の期間に、いかなる活躍をしたかは不明である。天和2年(1682)2月22日以降、藩主の移動に従い、明石を去ったのだろう。
かわって入部した第8代の松平直明時代には、伊賀者である服部源次右衛門の活躍が伝わる。元禄10年(1697)8月2日、津山藩主森長成の末期養子(関衆利)が発狂という事態により、除封されたのをうけ、藩主直明に先立ちて、津山城に入り、子細にわたる報告を受けた直明は、あまりの見事さに、疑問を発した。しかし源次右衛門は大広間の何本目の柱に、3本の筋を刻印した旨を答弁。10月に津山に入城して、それが事実を確認され、御感に預かったという(東播秘談/講座明石城史539頁)。
(24)明石藩士の燃料
享保18年(1733)の春(月日未詳)、三木郡小川組大庄屋安福令茂(はるしげ)のもとに、明石藩より、例年実行される「松葉切」に関する通達があった。郡内には豊富な松葉をみることができない。よって今年は、お城の堀端の松の枝を伐採して、家中の者に配布するという。三木郡は以前より免除されているので、人足は出さなかった(累年覚書集要93−4頁)。配布された松葉は、それぞれどのように使用されたのだろうか。
松葉は飢饉を救い、また食用にするのは「出家の常なり」ともいわれる(倭訓栞中編/広文庫18.443頁)。ある人が信濃国小県郡の農民に問うたところ、4月頃、松の若芽を茹でて食するという。ただその松が赤松かどうかは聞き洩らしたと報告する(年々随筆5/広文庫18.443−4頁)。
松若葉を2〜3日水に浸して悪汁を抜き、酒でもって蒸すこと7回。晒して乾かし袋に入れて後に、棒でたたけば、煙草の代用品となる(和漢三才図会82/古事類苑植物部1.94頁)。
葉が長く、淡紅色の近江勢多山の松葉は、書院や茶庭に使用される。樹木の下に枯松葉が撒かれ、赤色になる松葉を貴んだそうだ(雍州府志6/古事類苑植物部1.94−5頁)。
さて明石藩における松葉の使用目的とは、なんであるのか。各村の山の所有者より山年貢を徴収する。1反につき米1升5合。この割合に応じて松葉を松葉役所に納入する。よく枯らしてから、藩士一同に薪料として足軽は30把、それ以上の士には、50・70・100把というように配布した(明石名勝古事談6)。松葉とあなどるなかれ、実は大切な燃料であった。
(25)明石飛脚
数ある上方落語のなかに、「明石飛脚(あかしびきゃく)」と題する咄がある(米朝落語全集3.153−160頁)。ご存知の方は、かなりの落語通かと推察する。
ある日、ある時、大坂の町人が、晩までに明石へ手紙を届けたいと思って、飛脚宿を尋ねたところ、飛脚が全員出はらっていた。仕方なく、近くの足自慢の男に、依頼をする。この男、明石に行ったことがなく、その距離は15里であると教えられる。徳川幕府は、主要街道筋に1里塚を設置(36町=1里=4キロ弱)。現在の大阪―明石間は約60キロ弱ほどであり、咄に出てくる15里というのも、あながちに荒唐無稽な数字ではない。
速達便を委託された足自慢の男は、身支度(手甲脚袢草鞋ばき)をととのえて西へ向かって出発。途中、西宮・三ノ宮・兵庫・須磨・舞子で、大坂・明石間の距離を尋ね、つねに15里という答が返ってくるので、がっかりする。それでもようやく夕景直前に、人丸社にたどり着き、境内の茶店の床几に横になり、熟睡。閉店準備の主人に起され、あらためてここはどこですかと問う。明石の人丸さんと聞き、やっと明石に着いたのか、「走るより寝てるほうが早かった」というセリフでオチになる(口演時間は10分という短編)。
足自慢の男でも日中を要するとは、本当にまじめに走ったのかと疑いたくなる。安政2年(1855)の2月中旬のある朝8時頃、明石港に降り立った福沢諭吉(22歳)は、徒歩14時間を要して、兄三之助の勤務先(大坂中島の中津藩蔵屋敷)に到着している(会田倉吉著『福沢諭吉』55頁)。諭吉とくらべても、「明石飛脚」に登場する所要時間は、笑いのネタになるほど、遅いものではない。ただ大坂から夕景までに町中に入れる明石という場所は、上方文化の西端に位置するという地理的条件を、忘れてはならないだろう。
(26)疣おとしの薬師
享保の初めごろ、明石中町に住む大屋某なるものが、幼少のころより、全身に疣(いぼ=皮膚上に突起した角質の小さな塊。原因の多くはウイルスで、伝染の可能性がある=広辞苑)ができ、鮫皮の様相を呈したという、気の毒な状況にあった。そこで名医をたずねたり、あらゆる方法でもって、治癒をはかったけれども、効果はなく、万策つきた。そこで最後の頼みの綱として、仏にすがることとなる。
中町というのは現在の本町二丁目(東は本町一丁目・南は材木町・西は樽屋町・北は国道2号線をはさんで大明石一丁目)にあたり、元和4年(1618)の築城時に成立した、明石惣町10町の1つで、当初は信濃町を称する。しかし4代藩主大久保季任の在任中に、中町と改称。町の規模は、享保6年(1721)の改めによれば、家数36軒(本家20・借家16)で168人を数える(兵庫県の地名U)。
延宝6年(1678)、明石惣町10町の大年寄が2名設置された。そのうちの1人が大屋佐太郎で、おそらく疣に苦しめられた大家某なる者は、佐太郎本人か、その同族のだれかではなかろうか。
町内には開業医としての野口立伯が知られているものの、大家某が頼りにしたものは、材木町に所在する龍王山長林寺(天台宗太山寺末寺)の本尊薬師如来(明石七仏薬師の1つ)であった。当時この薬師さんの霊応(霊験=神仏などの通力にあらわれる不思議な験=広辞苑)には見るべきものがあったらしく、参詣して身の不運を薬師さんに聞いてもらうために、夜通し御堂にこもって懸命に祈ったという。その効果はすばらしく、跡形もなく治癒したと今日に伝わる(播州寺院異物語1/播陽万宝智恵袋下.934頁)。
(27)薬師の楊枝
宝永年中(1704〜11)のある日、信仰のあつい居士(在家で仏道の修行をする男子。近世は在家の禅の修行者の敬称=広辞苑)が、歯痛を覚え、昼夜にわたり両頬を押さえて、痛みにたえていたものの、ついに堪え切れなくなった。適切な治療はないものかと、思いをめぐらしていたところ、長林寺(太山寺末寺)の薬師さんが所持している楊枝の話を思いだした。
中世からその存在が確認できる長林寺―その本尊は、明石七仏薬師の一つで、歯痛に悩むものがあれば、本尊が所持する楊枝を借用して、それを咀嚼すれば、たちどころに平復するといい伝えられている。
歯痛に悩む居士は、長林寺をたずね、霊験あらたかな楊枝の使用を許され、咀嚼したところ痛みは止まったという。この居士は、長林寺の薬師の楊枝の話を想起しているところからも、明石の町の住人であったろう(播州寺院異物語1/播陽万宝智恵袋下.934頁)。
大宝令には、歯科と耳鼻科は同一の範疇にあり、平安末期には丹波兼康が口中科の名医として知られ、その子孫は徳川氏の医官に名を連ねている。治療法としては、内服薬・うがい薬・塗薬をはじめ、抜歯も実施していたという(富士川遊著『日本医学綱要』1/東洋文庫108−9頁)。
天暦元年(947)以降の成立といわれる、九条殿遺誡(くじょうどのゆいかい=藤原師輔の著した家訓)には、楊枝の使用についての記事がある。近世の楊枝は、京都粟田口の猿屋のものが知られており(人倫訓蒙図彝)、長林寺の薬師の楊枝は、いずこの製品かは分らない。しかしこの楊枝のお世話になるときは、「むくつけき男」の後だけは、遠慮したいものである。
(28)過食症の明石藩士
藩主松平信之の時代(万治2年〜延宝7年にいたる20年間)の話である。知行200石の穂艾(ほかり)某の嫡子三郎左衛門は、14歳のとき、父の跡を継ぐ(100石)。16〜7歳の頃より、奇妙な病気に取りつかれた。それは十分に食事をすませても、たちまちに食欲がわき、またお膳にむかうことになる。日に2〜3升の飯を食べたという。
嫡子ゆえ、このまま放置すれば、財政的にも不測の事態を招く可能性が大きい。病気克服のために、母は百方手をつくしたものの、解決にはいたらなかった。そこで母は、朝米6合を炊き、12等分して、12回にわけて食べさせる事にした。ともかくもその状態で小康をえたらしく、登城・参勤の場合を問わず、つねに12等分した食事(ご飯と少々の雑菜)を、懐中にしのばせて、勤務にいそしんだ。
20歳を過ぎたある日、長林寺(天台宗太山寺末寺)に参詣して、住職に対面し、ここ3〜4年来の病状について説明。仏力による治癒の方法を尋ねたところ、本尊の薬師如来の効能を聞かされ、即座に信心を起し、本堂での3日間の参篭を始めた。穀物・水を断ったために、飢餓に苦しむ様は大変なものであった。3日目にはいって、ついに4時間ばかり意識を失う。断食の最中なので、気つけ薬の使用も許されなかった。しばらくして意識を取り戻した三郎左衛門は、病気の平癒を話したという。4日目には、本尊に粥を供え、自身も少し食した。以後は猛烈な過食は影をひそめ、忠勤に励み、50石の加増を賜る。藩主(松平信之)の大和転封までは、毎月の8日・12日には塩断ちをおこない、薬師の宝号を唱えつづけたといわれる。勤務に支障がある場合には、僧侶に塩断ちを依頼して仏恩に感謝したと伝える(播州寺院異物語1/播陽万宝智恵袋下.932−3頁)。
(29)五ヶ所の番所
大坂夏の陣から4年を経過した元和5年(1619)6月末、上洛した将軍秀忠のもとから、急ぎ帰城した小笠原忠政は、以下にあげる五ケ所の番所の設置を命令した。
〇明石浜(犬甘半左衛門)
〇大蔵谷(二木勘右衛門)
〇塩屋(春日淡路)
〇船木(船上であろう。小笠原主水)
〇藤江(小笠原隼人)
番所に詰める人数は、いずれも犬甘半左衛門家中の侍5騎・鉄砲頭2騎・足軽50人・小人20人という配備であった。建物の規模は、南向き2間梁20間。屋根は苫葺き、三方は葭簀で囲い、南は紋付の外幕をつける。さらにこの番所の東側に、2間に4間の櫓を建て、大筒を2〜3挺据え付けるという物々しさであった。目的は、明石海峡を通過する船にたいする監視である。8挺立ての小船に侍2人と鉄砲2挺を用意し、西国からの船を吟味した。しかし高帆をあげて停止命令を無視して沖合を通過する大船には、船足が劣るため、空砲を2〜3発撃つという、さながら臨戦体制に近いものがあった。姫路藩にも同様の上意が下されたという(清流話)。
いったい何があったのだろうか。この年6月2日、広島藩主福島正則が改易されている。理由は広島城の無断修築であった。大坂夏の陣の終了後、加藤嘉明ら諸将の前で、家康がみずから疵を検視して、「我鬼孫」(定本名将言行禄)と自慢した忠政の対応(五ケ所の番所設置)は、正則の豪勇ぶりを言外に物語るものであろう。
(30)太寺の百姓藤次郎
文政の頃(1818〜30)、太寺の藤次郎なる百姓の物語である。ある時、手慰(おそらく博打であろう)みに打ち負けて、苦しい日常生活を強いられるようになった。その打開策として、彼は桃の栽培を思いついた。そこで東本町の船屋・常本屋本家・江嶋屋にお願いして、数百株に及ぶ桃の苗を入手。桃畑を開いた。同時に100羽の鶏を飼育すれば、さらに利益の増大を考えた。そのうえ桃畑の中に300坪の土地を垣根で囲い、数十の区画を作り、各区画に菜種の栽培をもくろむ。菜種の成長とともに、各区画に鶏を順次送りこみ、菜種の下葉を餌としてついばませば、鶏の飼養にも手間がかからず、上部の花や実には鶏の嘴も届かず、何等の支障もなく、菜種の収穫を得ることができると計算した。しかも鶏の排泄物は鶏糞として知られ、有効な肥料でもある。まさに良い事づくめ。ここまでは藤次郎の算盤どおりに展開したようである。
俗諺に「桃栗三年柿八年」といわれ、なかには「土州紀州ニハ一歳桃」もあって(重修本草綱目啓蒙21)、藤次郎が栽培したものの品種までは確定不能とはいえ、早期の収穫が期待できる植物であることは間違いない。
しかし物事にはリスクがつきものである。毎年3月になると開花し、話題を呼ぶ。そこえ桃の苗を寄付した船屋・常本屋本家・江嶋屋の面々が、大勢花見に押し寄せる。花見には、酒食をともなう宴会がつきものである。この出費が、折角の桃の収入を吹き飛ばす、大赤字となる。腹を立てた藤次郎は、桃の木を伐採して廃業のはこびとなる(明石名勝古事談)。
文政の末年までに刊行された『倭訓栞』前編(谷川士清著)には、「須磨兵庫辺には家ごとの軒に柳と桃を交へ插」すことが、記載されており、藤次郎の桃栽培のヒントは、案外このようなところから得たのではなかろうか。
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