| ■明石の史跡 |
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明石の史跡
日本歴史学会会員
茨木 一成
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(11)足利尊氏と大蔵谷
足利尊氏は、後醍醐天皇と覇権を争った建武3年(1336)に、再度にわたって、大蔵谷に駒を繋いでいる。
1月27日、新田義貞と賀茂河原において、終日戦うも打ち負けて、桂川に退く。翌28日、神楽岡を舞台に、義貞と相対するも、勝利の女神は微笑まなかった。1日おいた30日の夜半より、糺河原での戦闘は、激闘するも敗北にいたり、夕刻、丹波の篠村に落ちていった。再起を期して兵庫を目指した尊氏は、2月2日には、三草山(加東郡)から稲美野を通り、大蔵谷に到着している(梅松論)。
世中さはかしく侍ける比、みくさの山をとおりて、大くら谷といふ
ところにて、 前大納言尊氏
今むかふかたはあかしの浦なからまた晴やらぬわか思ひかな(風雅集9)
前途に不安を抱えた、尊氏の心境が、よくあらわされている。
翌3日兵庫に姿を現した尊氏。再起をはかるも、西宮・打出浜・豊島河原の合戦に破れ、12日の戌刻(午後8時)に兵庫を出帆。鎮西に下る。
それから100日余を経過した5月24日の暮、大船団を率いる尊氏の御座船が、大蔵谷に停泊した。陸上部隊は、塩屋より稲美野まで展開する(梅松論)。湊川合戦という大一番を翌日に控えた尊氏。余裕をもっての大蔵谷入りであったろう。
この日、楠木正成は兵700余を率いて、会下山に布陣。その夜、和田岬の新田義貞の陣を訪ねた正成は、酒を酌み交わしながら、過ごしている(太平記)。義貞の援軍を命じられた正成は、尼崎まで来たときに、足利の大軍の情報を得たであろう。勝敗の帰趨は明白であった。
(12)明石大路川心中
あれ数ふれば暁の。七つの時が六つ鳴りて残る一つが今生の。鐘の響きの
聞き納め。寂滅為楽と響くなり。(近松浄瑠璃集上)
読者をして、『曽根崎心中』のクライマックスへいざなう、名台詞である。近松の名声の確立とともに、「心中」が社会現象となる。初演が大坂(元禄16年5月7日より竹本座)であったためか、「京大坂の風」とまでいわれた(窓のすさみ)。数字の根拠は不詳とはいえ、その年大坂での心中は、46組を数えた(元禄世間咄風聞集)。「中にも北野辺及び梅田辺、まいよまいよの心中にて、所の騒動大方ならず」(明和雑録)という状況になり、梅田界隈では、それらしき者を見つけ次第追い払っている。
幕府でもこの状態を放置していたのではなく、享保7年(1722)、心中者の死体を取り捨てとし、生き残ったものに対しては、加害者と認定するのみならず、日本橋にて3日間さらし者にした。それでも根絶はむつかしかったようである(徳川禁令考)。大坂に近接する当地でも、その影響の一端を確認できる。
寛保3年(1743)9月26日、明石での心中事件発生により、大坂より検使の役人が2名、兵庫の町に到着(兵庫岡方文書7−3)。翌日に現地入りしたであろう。事件現場は大路川(おおじがわ)という。心中した男女の身元は不明。問題の現場(大路川)はどこなのか。明石川右岸の森友(神戸市西区)の王子水路の取水口を起点とし、県立明石西公園の西方で分流。JR神戸線のところで合流。市立衣川中学校の西で、下水路に吸収され、川ではなくなり、そのまま海へ向かう。大半が暗渠化されており、川筋の確認は困難がともなう。大道東公園(大道1丁目)のすぐ西では、かつて幅2m・水深1mはあったという(大路川の流路については、兵庫県芸術文化協会の田中弘子氏の御教示による)。
(13)瓦屋平次郎と須磨寺
享保16年(1731)正月18日、須磨寺では護摩堂再建への釿(手斧=ちょうな)始めがおこなわれた(以下とくに出典を明記しない場合は、『須磨寺「当山歴代」による』)。
この護摩堂は、慶長大地震により倒壊したもので、50年の歳月を経過して、ようやく再建の対象となった。慶安元年(1648)10月17日に、奉加帳を廻しての資金準備がなされ、翌2年(1649)1月4日より建立にかかっている。多井畑などの普請合力を加えて、落成をみたことであろう。
ところが万治2年(1659)5月22日、寺全体が大洪水(山津波か)に見まわれ、不動院・蓮生院・梅本坊・東蔵坊は土中に埋没。それ以外の建物も土砂の流入は避けられなかった。記録には見えないけれども、護摩堂もなんらかの被害をうけたことと思われる。
万治の災害から71年、三間四面の護摩堂再建願いが提出された。作業開始の直前の正月12日、山田庄(北区)木挽き仲間と、兵庫西の柳原善太郎なるものが、細工について意見の相違か、境内において狼藉に及ぶというトラブルも発生。三木郡の木挽きに依頼することになった。
瓦については、明石東新町の瓦屋平次郎が請負、土は播州山田村(垂水区)より調えている。東新町というのは、現在の相生町1〜2丁目にあたり、天和2年(1682)には西新町や新浜とともに、惣町に編入され、享保6年(1721)には、家数145、人口は634人を数え、そのなかに御用瓦師(明石藩)として、伊左衛門と長右衛門の名がみえる(兵庫県の地名U)。寛延3年(1750)5月から7月にかけて、本堂(5間4面)の瓦を焼いたとき、明石の瓦屋(姓名不詳)が、再度山田村から土を運んでおり、その活動の一端を知る事ができよう。
(14)戎町吉右衛門の妻
享保12年(1727)5月4日、郡代所より御触れがだされた。それによれば、明石城下の戎町に住む、猟師の吉右衛門の妻(名は不詳)は、ここ数年来、舅姑に孝行なる様子が上聞に達し、奇特(心がけや行いがすぐれてほめるべきものであること=広辞苑)なことであるとして表彰の対象となり、米2俵が下されたことを、安福家2代目の源右衛門令茂(はるしげ=三木郡小川組大庄屋)は、記録している(累年覚書集要)。
戎町(現在の材木町・港町)というのは、宝永6年(1709)以前に町名が見られた船町から、享保2年(1717)に分離独立したものである。町の規模は、同6年(1721)改によれば、家数192軒(本家71・借家121)で人口は951人である(兵庫県の地名U)。安福令茂は、被表彰者が「りょうし」の妻であると聞き、吉右衛門の生業を猟師と記したのが誤りであることは、当地が古くから漁師町であることを想起すれば、理解できよう。
吉右衛門の妻が、舅姑にたいしてどのような孝養をつくしたのかは不明というしかない。しかし寛政3年(1791)、美作国東南条郡高野本郷村の百姓彦次郎の妻が、病身の姑の看病につくし、野辺の送りをすませたまでは問題なかった。ところがのこされた舅に対しては、逼迫した家計ではなかったにもかかわらず、舅の出費(具体的な内容は不明)について種々歎いたため(舅の介護は、心身ともに大きな負担であったろうことは推察される)、離縁されてしまった(菅野則子著『江戸時代の孝行者』)。
上記の一件をさかのぼる64年前、吉右衛門の妻が表彰されたということは、舅姑にたいする孝行が、今日的なものになりつつあることを、示唆しているにも思われる。
(15)足代弘訓と魚住中尾村
天明4年(1784)11月26日、伊勢外宮の禰宜の家に生まれた足代弘訓(あじろひろのり)は、他界した父にかわって、家督相続したのが17歳。その後、荒木田久老に始まり、本居太平(おおひら=宣長の養子)・春庭(はるにわ=宣長の長男、のち失明)に国学を、ついで律令や和歌・有職故実を学び、上方にとどまらず江戸にまで足を伸ばし、多くの学者と交わり、見識を高めた。天保の大飢饉には、窮民救済につくし、大塩平八郎とは親交を深めていた。そのため大塩の乱の時には、大坂で取り調べを受けている。嘉永6年(1853)のペリー来航後は、有志と接点を持ち、吉田松陰が再度にわたって、弘訓を訪ねている(国史大辞典1)。
江戸時代最後の式年正遷宮となる、嘉永2年(1849)を2年後に控えた弘化4年(1847)10月25日、弘訓は魚住中尾村役人等にたいし、書状でもって、式年正遷宮の寄付金を募っている(西海勝也所蔵文書)。ただそれに続けて、弘訓の自宅が老朽化したのか、目下、分家(勝大夫)に寄宿しており、老年になって自宅がないのは心外と考え、遷宮までに拙宅が完成するよう、助力を要請している。そして遷宮にたいする寄付金は、当座の必要経費を申しうけ、余金は自宅の普請に取り掛かるまでは、預けて置きたい。諸国よりの寄付金を記帳の上、普請に着手したいという。委細は樋口金平という人物に申し含めているので、よろしく御聞き取り頂きたい。
何のことはない、遷宮の寄付にかこつけて、自宅の建築資金も・・・と願っている。高名な国学者の一面を垣間見たような気持ちである。寄付を依頼された中尾村は、この頃擂鉢生産において、繁盛していたから、おそらくこの要望には応えたことであろう。
(16)神戸女学院と明石
明治6年(1873)、アメリカ伝導会社派遣の、2名の女性宣教師が、花隈に開いた私塾が、明治8年(1875)、山本通(神戸市中央区)に新校舎が建築され、関西での女子教育のパイオニアである神戸女学院の成立をみた(兵庫県大百科事典上、900頁)。
第一次大戦が終了した翌大正8年(1919)、特例として専門部が「大学部」と呼称する特例が認められたのを契機に、一層の教育内容の充実・向上を目指し、前年(大正7)に、組織化された同窓会による神戸女学院後援会が、大正9年(1920)8月、法人化された。塚本ふじ同窓会長・第一回卒業生の市田ひさの両婦人が理事に就任。
大正10年(1921)8月、明石大蔵谷敷地の買収が、学院理事会において決定。交渉の窓口となった後援会は、山林田畑12,000余坪の売買契約を結んだ。11月には隣接地の購入計画が進展。最終的には、大正12年(1923)6月までに確保した敷地面積は、21,000坪(購入代金は137,000円)であった。
大蔵谷敷地の所在地は、山電大蔵谷駅の北方約1キロの台地といわれ、「丘の斜面は松の緑に覆われ、頂上から海を望めば淡路島は間近に浮かび、夕映えの美しさはまた無類」と形容されるこの場所。残念ながら筆者には知る由もない(諸賢の教示にまちたい)。
学舎の移転が実現しなかったのは、つぎの二つの疑問による。一つは関東大震災の経験により、新に削平された造成地への校舎建設にたいする疑念。それに今日のように宅地開発が十分でない場所における、女子学生の寄宿・通学の安全性への疑義(神戸女学院百年史総説164−9頁)。大蔵谷移転が実現していれば、明石の学校事情にも影響を及ぼしたことであろう。
(17)明石藩・槍の又兵衛
寛永11年(1634)、宮本武蔵(51歳)は豊前小倉藩主小笠原忠真の客分になっている。翌年以降の元旦に、藩主の面前において、宝蔵院流槍術の名手として知られた、高田又兵衛吉次(45歳頃)と立ち会っている。武蔵は木刀(一刀と考えられる)を持ち、又兵衛は鉤のついた稽古槍と伝えられる(宝蔵院流の槍のサイズは2.7〜3.0メートル。12〜15センチほどの横刃がついており、十文字鎌と称した=国史大辞典12)。
仕合の経過は、三度程の手合わせの後は、一進一退が繰り広げられ、やがて又兵衛が槍を投げ出しての敗北宣言をする。事態の推移を計りかねた藩主に、木刀より長い槍は七分の利があるはずなのに、勝を得られなかったのは、自身の負けである、と説明した(久保三千雄著『宮本武蔵とは何者だったのか』)。いわゆる位詰(くらいづめ=食詰)である。優位な体制をととのえ徐々に詰寄せる意味で(広辞苑)、武蔵の強さを証明する話であろう。
天正18年(1590)、伊賀国伊賀郡白樫村(三重県上野市)に生まれた又兵衛は、若くして奈良の宝蔵院胤栄の高弟中村尚政に師事。大坂夏の陣では、父吉春に従い籠城したにもかかわらず、父は落城した5月7日に戦死。同じ日、又兵衛は、小笠原秀政に従軍して手柄をあげる(慶元記)。
元和3年(1617)7月、小笠原忠政の明石入部以降に、招かれて200石の知行取りとなる。上記の事柄からは、又兵衛の大坂入城は、情報収集の意図が推察される。寛永9年(1632)の小倉移封に随い、島原の乱には、武蔵とともに参陣。慶安4年(1651)4月11日には、将軍家光に槍術を披瀝している。寛文5年(1665)の隠居時には、700石の鉄砲物頭であった(国史大辞典9)。
(18)糸からくり師作右衛門
須磨寺は、享保18年(1733)の2月7日より4月8日までの2か月間、平敦盛550遠忌の追善開帳を実施(以下特に出典を明記しない場合は、『須磨寺「当山歴代」』による)。敦盛が16歳の生涯を閉じたのが、寿永3年(1184)2月7日のことで、俗世間の計算とは少し異なるようである。
ご開帳に先立つ2月6日、敦盛の石塔前(神戸市須磨区一の谷町5丁目)において回向をしている。余談ながら、この敦盛の石塔(五輪塔)は、慶長大地震の際、浜辺まで移動したといわれ(当山歴代)、今回の阪神淡路大震災でも、空輸が国道2号線で確認されたとの報道がある。
上記2か月間というものは、多くの参詣人で境内は賑わっており、これら参詣人を対象に、大坂より辻打芝居などが出張する。なかでも道頓堀の九平次なるものは、24〜5人の編成で、芝居を披露している。これらにまじって、明石より参加の作右衛門なるものが、「糸からくり」を興行したことが記録されている。
「からくり」というのは「糸のしかけであやつって動かすこと。また、その装置」(広辞苑)のことで、作右衛門の興行した「糸からくり」は、文字通り糸で人形を動かしたものであることがわかる。
絡繰人形芝居の元祖は、寛文年間(1661〜72)に大坂の道頓堀で興行した竹田近江といわれ、彼は時計技術者であった。天文20年(1551)、ザビエルが大内義隆に機械時計を贈って以来、多くの宣教師たちが、機械時計をもたらした。16世紀末には、津田助左衛門らの時計職人も誕生をみた(小泉和子著『道具と暮らしの江戸時代』166−7頁)。明石の作右衛門も、と時計技術の伝承者の一人であったかも知れない。
(19)白隠禅師と龍谷寺
臨済宗寛延3年(1750)冬、妙心寺派中興の祖として名高い白隠禅師(66歳)が、明石の龍谷寺(材木町)に赴き、「息耕録」を提唱した。「息耕録」とは、白隠が述べたもの東胡が編集し、寛保3年(1743)開版された「息耕録開莚普説(そっこうろくかいえんふせつ)のことで(国書総目録5.332頁)、提唱というのは、「禅宗において、師が語録を講義したり、宗旨(根本精神)を明らかにする際に、その大要を提起して自在に説法すること」(仏教語大辞典下.976頁)をさす。
翌年の春、岡山の少林寺に招かれるまで、逗留していたようである(『飛騨路と白隠』109頁、なお白隠の明石滞在については、観音寺住職神足守正師のご示教による)。
白隠は、駿河国駿東郡原(沼津市)の生まれ。15歳で当地の松蔭寺において得度。修行を積み重ね、享保2年(1717)、松蔭寺の住持。その後、各地より招請に応じて、精力的に臨済禅の発展に努めた(国史大辞典11)。おそらく明石行きも、龍谷寺からの招きに応えたものと思われる。
「金毘羅さん」や「黒髪塚」で知られる龍谷寺(妙心寺派)は、近世以前から存在しており、元和5年(1619)、小笠原忠真の母の菩提寺として保護を受け、寺域の拡大とともに峯高寺と改名。ところが小倉移封にともない、峯高寺も移転。その跡地に、天叢和尚が開山したのが、今日の龍谷寺につながる(新明石の史跡134−5頁)。
白隠を迎えた明石の臨済宗の動向については、未詳としかいえない。しかしながら、港町として栄えた二見の観音寺(二見町東二見)に、白隠の紙本墨画が、複数存在するところからも、影響の程は察知できるものと考えたい。
(20)明石の中等教育
日清戦争におけるわが国の勝利は、西欧世界においては驚きとともに、その原因追求に関心が寄せられる。1895年(明治28)5月3日の「ノース・チャイナ・ヘラルド」紙上には、以下のような記事が掲載されている(『外国新聞に見る日本A』672頁)。
日本を理解し、1894年から1895年にかけて日本が軍事的勝利を収めた原因を理解するためには、過去30年間続けられた中等教育の効果を考えないわけにはいかない。(中略)しかし日本が勝利を得た戦闘を見ると、勝利はむしろ戦略、秩序、組織力、軍務服従のたまものだった。日本陸軍が勝利を得た理由は兵隊たちが小学校教育を受け、将校たちが中等・高等学校教育を受けているという事実にあり、「知識は力」と強調する。
大正11年(1922)8月24日、文部省よりの設立認可にもとづいて、明石市立中学校が創設され、翌年4月8日に開校のはこびとなる。自費によるアメリカ教育視察の経験の持ち主でもある山内佐太郎氏が、初代校長として網干町立実業補習学校長より就任。広く人材をあつめるという方針のもと、寄宿舎を準備したという(『明石市史下』363−4頁)。
氏が教育者として傑出していたかは、岡山関西(かんぜい)中学の校長時代の教え子の顔ぶれをみれば、納得できよう。財界総理といわれる経団連会長を、三期六年務めた土光敏夫氏に代表される。土光氏によれば、「国士魂とデモクラシーの調和」を意図されていたという。西欧世界から指摘された「知識は力」の源泉の成立は、第一次大戦後のことである(史料を提供された池内亀蔵氏に謝意を表したい)。
日本歴史学会会員 茨木 一成
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