| ■明石の史跡 |
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明石の史跡
日本歴史学会会員
茨木 一成
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(1)人丸神社と細川幽斎
関が原の合戦以降のことであろうか、隠居の身の細川幽斎は、海路明石に到着し、たった一人で人丸神社(この頃の人丸神社には、元和に築城された明石城の場所に鎮座)に参詣したことがあった。神前には多くの人々が集まり、それぞれに歌を詠んでいた。その中の一人が、めざとく幽斎を見つけて、
「人丸様にお参りした者は、歌を詠んで手向けとするのが慣わしです。あなたも一首お詠みなさい」
といって、皆が詠んだ紙を取り出して、「あなたもこれへお書きなさい」としきりに勧められ、幽斎は閉口して、「いや、私は、歌のことは一向知らないものですから」と言葉を濁して辞退したが、連中は納得せず、やむをえず、「ほのぼのと明石の浦の朝霧に」と詠み出したところ、人々は、それは人麻呂の歌ではないか、と失望の色が見えた。幽斎は委細構わず、「その朝霧の次に、と、と加えてください。そして、その次に、よみし翁はこの苔の下、として下さい」こういい終って、さっさと人丸山を後にした。
ほのぼのと明石の浦の朝霧と詠みし翁はこの苔の下
あまりの見事さに、一同顔を見合せて驚く事、驚く事。これは只者ではないと、船着場まで追いかけていき、そのご仁が細川幽斎公だとわかり、一同あらためて赤面したという(桑田忠親著『細川幽斎』)。この頃には、歌の神様であることが人口に膾炙していたのであろう。
(2)人丸塚と明智光秀
別所長治との対決が避けられなくなった羽柴秀吉は、東播磨に点在する別所陣営の拠点の各個撃破を意図する。手始めに、「播州一ノ名城」(別所長治記)といわれた野口城(加古川市)を、攻略するのが天正6年(1578)4月12日(清水寺文書)。ところが18日に、吉川元春・小早川隆景・宇喜多直家ら5万余の軍勢が、上月城を包囲した。前年の冬、尼子再興を旗印に、信長の支援を得て上月に入城していた尼子勝久・山中幸盛らは、書写山の秀吉に毛利の来襲を知らせた。緊急事態は、秀吉からただちに信長に伝えられ、織田の主力部隊が、信忠の指揮下に播州出陣となった(武将で、こなかったのは柴田勝家と林通勝ぐらい)。
当時、丹波八上城を攻囲中の明智光秀も、5月2日に明石に到着している。しかしながら明石川の洪水で、渡河不能となり、まる一日を明石で過ごす。その間に人丸塚(現在の明石城)に登り、
夏ハ今朝嶋かくれ行なのミ哉
と詠み、書写山についた日(4日)、連歌師として著名な里村紹巴に、直筆でしたためている(竹内文平氏文書)。明石海峡を見渡しながら、思わず口をついて出たものであろう。上記の句につづけて、光秀が、明石から姫路に向かう途中、敵(別所方)は立て籠もり、合戦の体をなさなかったとも記されており、別所方は徹底した籠城戦を選択していることがうかがえる。後世の野次馬からすれば、ぜひともに一戦を交えてほしかったと思うのは、筆者のみではなかろう。
(3)善楽寺と善光寺如来
犬公方から忠臣蔵まで、華やかな話題に彩られた元禄。その末年ともいえる元禄17年(1704)の2月17日から3日間、善楽寺(大観町)において、善光寺阿弥陀如来の御開帳がおこなわれた(累年覚書集要)。明石藩内の各所に案内の札が立てられ、大きな話題となり、多数の人々が、御利益を求めて参詣し、門前市をなしたことが予想される(このことは『明石名勝古事談』や、信頼度の高い「明石市史年表」にも見えない)。
開帳というのは、「社寺が日ごろ厨子のなかに安置秘蔵する神仏・霊宝などを、一定期間公開し広く人々に拝観」させることで、居開帳(社寺の所在地)と出開帳(他所に出張)に分類される(国史大辞典)。善楽寺で実施されたのは出開帳で、その目的は、当初はともかくも、このころには経済的効果を意図したものであった。ただあまりにも開帳が盛んとなるにつれ、享保5年(1720)には、開帳の間隔が33年と定められた。
善光寺の阿弥陀如来(1尺5寸)は、欽明天皇13年に百済国より渡来したもので、推古天皇の勅命により、同10年(602)に信濃国へ移したという(扶桑略記)。善光寺は元禄13年(1700)7月の出火により焼失。しかし幕府は松代藩に命じて、同16年(1703)より普請が始まる。善楽寺での開帳は、まさに復興事業の一環であったことがわかる。と同時に、善楽寺が選ばれたのは、港町明石の繁栄を裏付けるものといえよう。この次に明石藩内に善光寺如来が姿を現すのは、寛政8年(1796)の廻国途中、淡河町(神戸市北区)に止宿している(累年覚書集要)。
(4)明石港と福沢諭吉
安政2年(1855)の2月中旬のある日、下関の船場屋の持ち船が明石港に接岸した。船頭の制止を振り切って一人の青年が降り立った。朝の8時頃のことである。後ろをふりかえりもせず、一路山陽道を東へ向かう。のちに明治天皇もめでた舞子・須磨という景勝地にも足をとめず、歩きに歩いて、その日の夜10時頃、兄三之助の勤務先である大坂中島の中津藩蔵屋敷にたどりついた。そこは自身の誕生地でもあった。この青年こそ、新しい時代に飛翔した、若き日の福沢諭吉(22歳)である。彼はなぜに明石の波止場に降り立たねばならなかったのか。
話は一年前にさかのぼる。ペリー来航とともに、豊前中津藩でも、オランダ流砲術の必要性が論議され、たまたま兄三之助の長崎行きの機会に同道することになった。そして桶屋町の光永寺に居候の身となり、勉学に頭角をあらわす。諭吉の能力に嫉妬した奥平壱岐は、家老である父(与兵衛)に、諭吉の母が病気との偽手紙を送付させ、諭吉は長崎から急ぎ中津に帰る。奸計と知った諭吉は、江戸で遊学を志し、中津の商人鉄屋惣兵衛の為手紙を巧みに行使して、船場屋の船に運賃後払いの約束で、大坂行きの船便に乗りこむ事ができた。下関を出帆してから15日目に明石につき、上述のような事態となった。
大坂で諭吉を迎えた兄は、江戸行きには同意せず、蘭学の勉強なら、大坂にも立派な先生の存在を聞き出し、3月9日に、緒方洪庵の適塾に入門することとなった(会田倉吉著『福沢諭吉』)。明石に上陸した諭吉の姿を目撃した人も、この青年の姿からは、次の時代に雄飛する人物とは想像できなかったろう。
(5)大蔵谷宿の役割
大蔵谷宿とは「大蔵谷村を東西に貫く山陽道沿いに発展した近世の宿場町」といわれ(兵庫県の地名U)、宿としての機能は、南北朝期には存在が知られる。近世の大蔵谷は、ただ大名を含めた多くの人々に、たんに旅宿を提供したにすぎないのだろうか。
天和2年(1682)3月、明石藩第7代藩主本多政利の国替えにより、かわって越前大野より松平直明の明石転封が発令された。
5月29日の正午に入城の運びとなる。それに先立ち、当日の午前中には、藩内の大庄屋・小庄屋・町人らが、大蔵谷川(現朝霧川と思われる)の東において、新藩主に御目見えして、直明を迎えている。直明は行列を整えて山陽道を西下したものの、わざわざ半里東の山田村の東(山田川の河口部)にて船を召しており、海路より大蔵谷川の河口部左岸に上陸。そこで上述した大庄屋らの出迎えを受けたのである。直明を出迎えた一人でもある三木郡小川組大庄屋安福藤右衛門武重は、大蔵谷川と山田川の距離を「半里」と記録しており、この間約1.5キロほどあるので、当時の「半里」とはこの程度の意識だったようである。
元禄11年(1698)5月8日、江戸より帰着した直明は、8日が精進日ということで、帰城をさし控え、その夜は大蔵谷に一泊。翌九日の明の6ツ半(午前7時)に無事に入城する(累年覚書集要)。
直明以外の藩主の行動は不明とはいえ、明石藩主にとって、大蔵谷宿は、城下の東の出入り口として、特別な意味を持っていたのではなかろうか。
(6)大久保町と象
近世以前の明石市内の宿駅としては、大蔵谷がよく知られている。寛永12年(1635)6月21日、武家諸法度の改定にもとづき、参勤交代が制度化された(徳川実紀)。この時に大久保が追加されている。駅馬8匹が常備され、飼料は明石藩が供給し、一時は大蔵谷をしのぐほどの繁盛を見せ、明石本駅とも称されたと伝える(兵庫県の地名U)。
宿駅というからには、武士を初めとする旅人が宿泊する使節であることはいうまでもない。ところが18世紀の初めに、この大久保に珍客が一泊した。それは好奇心旺盛な8代将軍吉宗に献上される象であった。宿泊地が大蔵谷ではなく、大久保であったところに、当時のにぎわいを実感するのである。
享保14年(1729)3月10日に長崎を出発した象が、4月17日、大久保に到着。その夜は当地に一泊。翌朝、「小き熊手」をもった象使いを背中に乗せ、18日の午前中に明石城下を通り、西垂水村で昼休みをとっている(『累年覚書集要』)。大久保の町では前代未聞の宿泊客であった。さぞかし多くの人々が、見物につめかけたことであったろう。
明石を通過した象は、兵庫・尼崎で宿泊を重ね、4月22日に京都で中御門天皇に謁見。東海道を下り、5月25日に江戸到着。27日吉宗は観覧し、その後は浜御殿で飼育した。
この象は翌年に、江戸中野村の百姓源助に払い下げられている。飼育の経験がないために、種々の苦労があったろう。時には大暴れしたという騒動が伝えられながらも、寛保2年(1742)12月に異国での生涯を終えている(年表日本歴史5)。
(7)浜光明寺と岩倉具視
浄土宗遍照山光明寺(浜光明寺)は、もとは真誉上人が元亨年中(1321〜24)の創建が伝えられ、建立された場所は三木であった。元和3年(1617)、小笠原忠真の明石築城にさいして、三木より現在地(鍛冶屋町)に移転された。ただ移転については、もう一説あって、元和7年(1621)、別所氏の家臣(中田教有)による移動が、『南方遺胤』にみえる。
知恩院の末寺であり、幕府時代における勢威のほどは、享保14年(1729)に鋳造された釣鐘(市内最大級で明石文化財に指定)や、文化7年(1810)における法然上人の600回遠忌などにうかがえよう(新明石の史跡)。
明石藩は徳川一門である。ご一新は、藩を直撃した。慶応4年(1868)1月13日、四条隆謌が参謀兼中国四国追討総督に補任。明石城を本陣とすることとなった。20日、征討軍が到着。翌日(21日)には、藩主みずから勤王に二心なきことを誓うに及んで、浜光明寺も試練を覚悟したことであろう。
8月29日、東京行幸が決定。その同じ月に、岩倉具視は浄土宗総本山である知恩院に、東幸費用の一端として金5万両の上納を命じた。知恩院は各地の末寺にたいし、応分の負担を求めた。その一つが浜光明寺にもあてられた。早速当地域の浄土宗寺院と協議に及んだものの、早急に結論が出せなかったことは、9月23日に宗政御用掛よりの催促状が存在することからもわかる。しかし10月1日にも催促状が到来し、この上納金問題は難航する。
結末は、10月22日の宗政御用掛出役署判の証書がものがたる。光明寺・西光寺・遍照寺・門中(檀越)に宛てた、金500両の受領書である。浜光明寺にとっての維新は、この1枚の証書に集約されているともいえよう(拙稿「維新の明石浜光明寺」『歴史と地理』216頁)。
(8)新町の「鼠捕り商」
幕藩体制下の諸人は、「入鉄砲出女」という箱根の関所のイメージからも、旅の困難さを想像してきた。ところが行商人などは、かなり自在に他国を往来しているのである。
たとえば、文化15年(1818)3月から1年間、広島県尾道市のある町に提出された宿泊願からは、職人をふくむ行商人の活動範囲がわかる。こころみに播磨関係分のみ抽出してみよう(新修尾道市史4/深井甚三著『江戸の旅人たち』42−3頁)。
呉服行商(赤穂・魚崎) 反物商(京都・広島・高砂)
目鏡おさ商(高砂) 剃刀磨石商(高砂)
植木商(播磨・池田) 筆墨商(西条)
□目かね商(赤穂) 目鑑糸もの商(津方村・高砂)
小道具類(加古川) 鼠捕り商(明石新町)
これらの商・職人達は、1年間の宿泊を願い出ているところからも、たんなる商品の販売のみならず、技術指導も含まれていたと考えなければならないだろう。
注目すべきは、明石新町から出向いている「鼠捕り商」の存在である。延宝6年(1678)の「町中小名之定」には、東西の新町が見える(明石御代々御城主様御入国并町割年号記)。明石新町とあるだけでは、いずれの新町か即断はできない。この鼠捕り商が、相手方から招かれたのか、はたまた自主的に出向いたかは、これまた不明である。前年(文化14)には、畿内から九州にかけての地域に蝗害が発生しており(近世生活史年表)、大量発生すれば、1日に4〜5町もの穀物類の被害が報告され(本朝諸社霊験記)、鼠にもその影響が及んだのかも知れない。
(9)岩屋神社と雨乞い
天正3年(1575)の夏の始めごろから、明石地方は炎天に悩まされていた。このままでは秋の収穫に重大な支障が懸念され、凶作必至となれば、税収不足はむろんのこと、社会不安の引きがねとなる。当地域の支配者である明石越前守は、郡内の有力5か寺にたいし、雨乞いを命じる。日時は6月9日、場所は岩屋神社の拝殿と決定。ところがここに重大な問題が持ちあがった。
この頃、岩屋神社では、如意寺僧による安居の実施時期と重なるため、如意寺より、行事の管理について、明石越前守の新城を尋ねて、種々の申し入れをおこなった。安居というのは、陰暦4月16日に始まり7月15日に終るもので、その間、外出をせずに、部屋にこもって修行をする。別名を雨安居(うあんご)・夏安居(げあんご)ともいう(広辞苑)。
たいする太山寺は、従来からの事情(詳細は不祥)を説明することによって、明石氏の同意を得て、薬師院定昌法印と実蔵坊定恵を、それぞれ導師・行事に任命。一方、如意寺は、主張が通らず、面目を失い、岩屋神社へも出席はしなかった。
当日(6月9日)は、110余人の僧侶が参加するなかで、明石越前守は秘蔵の仏舎利を持ち出し、管絃衆を乗せた船を、明石海峡に繰り出し、音楽を奏でる内に、海中に仏舎利が投入されるなど、諸種の儀式がおこなわれた。明石一族を始め、貴賎群集してこのイベントを見守った(太山寺文書)。
雨乞いは結果がすべてである。まもなく大雨が降り、太山寺主導のこの儀式は大成功をもたらす。郡内における、同じ天台寺院(如意寺と太山寺)の主導権あらそいでもあった。
(10)吉川広家と明石
慶長5年(1600)6月18日、家康は会津(上杉氏)討伐のため伏見城を出発。当時、佐和山城(滋賀県彦根市)に蟄居していた石田三成は、好機到来と考え、家康追討を計画。7月12日には、三成は佐和山城にて、大谷吉継・安国寺恵瓊らと会談し、挙兵を決定。
一方毛利氏は、吉川広家と安国寺恵瓊をして家康東征に従軍させた(吉川広家自筆覚書案)。大坂で恵瓊と合流するために、広家は7月5日、出雲富田城を出発。佐和山での会談後、大坂にまいもどった恵瓊は、広家のもとへ急使を派遣する。同13日、明石で東上する広家に出会う(吉川広家自筆書状)。恵瓊の使者から、家康打倒の計画を知らされ、衝撃をうける。
姫路からは山陽道(西国街道)を進んできた広家、一方、西下する恵瓊の使者、両者が出会ったとされるのは、明石のどの地点なのか。中世における明石(狭義)は、東の朝霧川から西は明石川、北は伊川、南は海の範囲が考えられる。山陽道での接点を考慮すれば、朝霧川から明石川のある地点。勝手な想像が許されるならば、大蔵谷の宿か、あるいは人丸山(現明石城)の麓か、景勝の地での出来事だけに、広家の驚きは大きかったのであろう。
その日は明石で宿泊したものと考えられ、翌14日、大坂に急行した広家は、その夜、恵瓊と激論を交わすことになる。要するに輝元が、家康と戦わねばならない理由がないということを、繰り返す広家。たいする恵瓊は、自分の主張が認められなければ切腹を、という。議論は平行線をたどる。14日付けで、広家は輝元が三成らの計画にはまったく預かり知らぬことを、榊原康政に知らせる。結果的には、これが毛利家を救うことになる。
日本歴史学会会員 茨木 一成
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