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■明石教育史

 


学校と教育の歩み

(明石教育史)

県立明石城西高等学校教諭
吉岡  保



幼稚園のあゆみ(23) 
市制施行(大正8年)当時の播陽幼稚園 その1



  図、表、と地図について。 図は大正13年、明石尋常高等小学校跡を改修移転した新市立播陽幼稚園の見取り図だ。表や地図中にAで表記するもの。
  表は「市制施行(1919年)当時の播陽幼稚園の位置」で、@〜Jはその時々の場所ごとの学校名を示す。

【図】大正13年旧明石尋常高等小学校を改築した新園舎の図
   (『明石教育資料NO.7 明石市幼稚園沿革誌』1969、63頁)


【表】市制施行(1919年)当時の播陽幼稚園の位置





幼稚園のあゆみ(22) 
明石市と「市立播陽幼稚園」の誕生

 

 明石市(旧市域)の市制施行は1919(大正8)年11月1日だ。3年後1921(大正11年)私立播陽幼稚園が廃園に至る経過は前回見たとおりである。明石市はこの幼稚園を引き継ぎ、市立幼稚園として運営することにした。前園長の功績に敬意を払い、名称や園舎はそのままで、市立播陽幼稚園とすることに決した。
 1922(大正11)年3月5日、「私立幼稚園設置の件」議案が明石市議会に提出された。(『明石市史資料(大正期編)第八集(下)』199頁)

  一 本市幼児保育の為め、大明石村字西郭千四百七十一番地ノ一
    (元播陽幼稚園跡)に、市立播陽幼稚園を設置せんとす
       大正十一年三月五日提出

     理由
  従来、本市に於ては、県立明石女子師範学校附属幼稚園、及び私立播
  陽幼稚園の二園ありしが、今回、播陽幼稚園主病気のため廃園止むなき
  に至れり、斯くては幼児保育上支障を来たすを以て、本案を提出する所以
  なり

 この年3月11日、明石市議会は「私立」播陽幼稚園をもって、「市立」播陽幼稚園とすることを決した。同4月1日に園児120名を2部編成(教室不足のため)にして開園、同4月5日に職員2名、使丁1名を配置した。新園長には内匠ちゑが迎えられた。着任した新園長は、当時の様子を手記に記している(『明石教育資料bV 明石市幼稚園沿革誌』1969、62頁)。 

  来てみると、二室の間の廊下が、玄関と職員室、保育室の一つは、一枚
  板の机に一枚板床机(腰掛けというより床机)、他の一室は遊戯室で、室
  の三方に、板がかんで吊ってある。かんをおろせば、腰掛けになる仕掛
  けである。ベビーオルガンが一台(これも借りもので、すぐ取り替えされ
  た)その他、何物もない。

 この後、昭和36年3月の退職の日まで、文字通り「播陽幼稚園の歴史」となる内匠園長の奮闘が始まった。

       
園舎図:明治37年移転当時(大明石町)の私立播陽幼稚園
       (『明石教育資料bV 明石市幼稚園沿革誌』1969、62頁)



幼稚園のあゆみ(21) 
「私立播陽幼稚園」 その2


 以下は私立播陽幼稚園閉園式の式次第。(『明石教育資料bV 明石市幼稚園沿革誌』1969、62頁)。   
   一、午前十時振鈴  一同着席
   一、君が代  合唱 二回   
   一、開会辞  発起人総代   
   一、明石市長 〈相川茂郷〉感謝状朗読   
   一、記念品  贈呈   
   一、生徒総代 挨拶   
   一、父兄総代 挨拶   
   一、来賓祝辞 演説   
   一、元園主  挨拶   
   一、閉会  
 明治25年から大正11年まで、私立播陽幼稚園に学んだ園児の数は1500人におよんだ。閉園式で、原田かじの永年の大きな功績に対し、明石市長は感謝状を贈った(『明石市史資料(大正期編)第八集(下)』199頁)。

    元私立播陽幼稚園主原田かじ子女子は、数十年間独立して幼稚園を経営し、
    園児保育の事業に貢献し、其の功績少なからざりしが、本年3月、病の故を以て
    廃園の止むなきに至れり、因て同女子に対し、感謝状を贈呈せんとす
          大正十一年四月十四日提出  
                                   明石市長 相川茂郷

  明石の幼児教育に嚆矢を放ち、多大な功績を残した原田かじは生涯独身を通し、1926(大正15)年、68歳で神戸に没し、明石市材木町の長林寺に葬られた。

      左写真:原田かじの墓(材木町の長林寺墓地)



幼稚園のあゆみ(20) 
「私立播陽幼稚園」 その1


 1922(大正11)年4月、明石市立播陽幼稚園が開園した。明石市最初の市立幼稚園だった。しかしこの播陽幼稚園は、既に私立幼稚園として明治中頃にはじまったものだ。
 はじめたのは原田かじ。彼女は1858(安政5)年生まれ。幕末から明治にかけて、かじの家は寺子屋を営んでいた。彼女は当時、明石に幼稚園のないことを残念に思い、1892(明治25)年に県知事の認可をとり、保姆の資格を得て自宅(相生町)で幼稚園を開いた。播陽(原田)幼稚園の創設はこの時。同年、私立明石(錦江)幼稚園が細工町(現在の本町)で開園した。明石の街の東に播陽幼稚園、西に明石幼稚園が並立した。
 私立播陽幼稚園は1904(明治37)年、施設の充実を期して大明石町(1471番地の1)に移転した(参照播陽幼稚園移転略図)。図の中で「旧播幼」と記されるものだ。この年、明石女子師範附属幼稚園(山下町)が開園し、同時に私立明石幼稚園は休園した。市街の東側に出来た附属幼稚園との競合を避け、同じく東側の私立播陽幼稚園(相生町)は街の西側(大明石町)に移転した。園舎の一新、東西のバランス、園児通園の便等を考慮したものだろう。
 私立播陽幼稚園は1922(大正11)年、閉園することになった。その理由は、園主でありたった1人の保姆である原田かじの健康問題だった。そのため同園の存続が困難となった。同年3月、閉園式が中崎公会堂で行われた。



      播陽幼稚園移転略図 (『明石教育資料No.7 明石市幼稚園沿革誌』 1969、72頁)



幼稚園のあゆみ(19) 
「大正から昭和 その2」

 前回(18)の表「教育法令(幼稚園関係)と明石の幼稚園」について。
 明治20年代、これ以前は幼稚園に関する国の具体的法令は制定されていない。改正小学校令で、明確に市町村が小学校の設置管理について規定し、「幼稚園に関する規則は文部大臣が定める」と定めたのは23年のことである。明治25年私立明石(錦江)私立播陽(原田)の2幼稚園が創設され、同30年代の改正小学校令時代に「小学校令施行規則」「幼稚園保育及設備規程」が定められ、幼稚園が小学校に附設可能となり、女子師範学校の要請(教育実習のため)から附属幼稚園が誕生した。
 次いで明治40年代、小学校の義務教育年限が6年に延長された。小学校義務就学率向上は市町村費の支出(教育費)を押し上げた。すでに、幼稚園教育の必要性は高まっていたが、財政上の問題から公立幼稚園設置は困難であった。そこで「小学校令施行規則」を改正し、幼稚園設置を簡易化した。つまり、私立幼稚園増設を奨励誘導するものだった。この頃、私立二見幼稚園(村の教育事業)と私立魚住中尾(西海氏音助氏による)の二園が創設された。
 その後、二見幼稚園は事実上村営(大正9年に村立になる)として運営された。一方、魚住中尾幼稚園は大正初年には閉園となった。二つのケースの違いは何に起因するか。港と街場をもつ二見と農村部の魚住中尾の間には、地域の職業構成や経済基盤に差違があったと思われる。大正15年の幼稚園令発布と「幼稚園令施行規則」によって、幼稚園に保育所的性格が加えられた。この頃までに二見の横河保育園「子どものお里」が出来ていた。
 大正期から昭和初期に、明石市(旧明石町)の東側に女子師範附属幼稚園、西側に播陽幼稚園があり、二見村に村立二見幼稚園があった。農村部の林崎村、大久保村、魚住村等にはこうした幼稚園はまだなかった。
 昭和2年頃から、農村部を含め各小学校に土曜幼稚園・午後保育の幼稚園が併設された。文部省は昭和16年「幼稚園については空襲の危険の切迫とともに一定期間授業を中止することあるべき」、同18年「生産増強の一途として幼稚園の施設を保育所に転用する」等の通牒を出した。市立播陽幼稚園は保育時間の延長、空襲からの避難、寺院を仮用しての保育等の対応を迫られた。
 激しい空襲の被害の果て、戦中・戦後の混乱と中断を経て、市内の各幼稚園は復活し、現行憲法と学校教育法のもと再生の道を歩みはじめた。




幼稚園のあゆみ(18) 
「大正から昭和 その1」


これまで明治期を中心にみてきた。この後は大正期から昭和前期をみていきたい。まず、近代日本の幼稚園に関する法令を整理してみよう。明石の幼稚園の歴史には市域の発展と、時々の法令が色濃く反映していることがわかる。 

   表 教育法令(幼稚園関係)と明石の幼稚園




幼稚園のあゆみ(17) 
「子どものお里」
 

 二見町東二見「二見民衆港」からすぐ北方に「二見横河公園」がある。周りは歴史と趣のある赤煉瓦の壁で囲まれている。この公園は「赤壁の家」(「赤壁さん」)と呼ばれた横河邸の敷地だった。ここに、1922年(大正11)〜1941年(昭和16)の期間、ユニークな保育所「子どものお里」といわれた「横河保育所」があった。
 明治時代、二見横河家は医師や建築技師を輩出した。彼らはまた、地域の篤志家であり、文化人でもあった。明治期に東京の旧三井本館ビル、第一生命ビル、帝国劇場などを設計した人物が横河民輔だ(横河橋梁創設者)。その兄の横河震八郎(医師)は1880年(明治13)神戸に小児科医開業、伝染病隔離病舎、神戸産婆学校をつくり、須磨保育園、「こども海浜園」(明治25年に開設)という幼児養育施設を創設した。
 大井(横河)英は横河震八郎の娘、東京の大井家に嫁いだが、夫(医師)が急死、復姓して4人の子どもと二見の生家にもどり生活した。横河英(ひで)は父震八郎の「こども海浜園」の精神を受け継ぎ、1922年(大正11)二見横河邸内に横河保育所「子どものお里」を創設、社会福祉事業を始めた。
 横河英は1877年(明治10)生まれ、震八郎の長女。「身長は1.6メートル以上の長身、神戸女学院英文科で学び、後にセイロン(スリランカ)に長く滞在、英語に堪能で教育に非常な識見がある」人物だった。「子宝をみがけば国が光る。子どもを立派にすればその国は平和で、社会は幸福である。理知の伴わない盲目的愛情は、かえって子どもの心身を傷つける」という信念をもった。英は可能性のある生徒は、本人の希望を聞き、横河邸に住まわせ進学させた。そのため、育英資金を設けた。「子どものお里」の幼児、出身地は東京、名古屋、大阪、京都、福岡、長崎などに及んだ(神戸新聞明石総局編『聞き書き あかし昔がたり』)。
 1932年(昭和7)「子どものお里」は、開園10周年記念報告会を開催した。開園以来の入園児童数92名(男40、女52)、出身は東京7・名古屋と京都11・大阪21・阪神11・神戸28・姫路7・九州7、入所理由は親と死別24・家庭事情24・虚弱9・躾5。この年「子どものお里」運営資金は、収入:57,128円84銭、支出:62,137円16銭(大西昌一『ふるさと二見の歴史』)。収入の不足は横河家が補ったのだろう。「子どものお里」は戦時体制が強化されるなか、米の配給制度(昭和16年)がはじまり、また人手不足などもあり運営が困難となり、廃園になった。この頃、日本は「子宝をみがくことができない」「平和でない、社会は幸福でない」時代に突入した。





[写真「二見横河公園」]  (旧横河邸:「子どものお里」があった)



幼稚園のあゆみ(16) 
幼稚園と保育所
 

 日本の幼稚園の嚆矢は、横浜ミッションホーム(明治4年)、京都柳池(小学)校幼稚遊嬉場(明治8年)で、何れも一時的な幼児教育施設だった。我が国最初の本格的な幼稚園は東京女子師範学校附属幼稚園(明治9年)だった。
 兵庫県で最も早い、氷上郡柏原町崇広小学校幼稚保育場設置計画(明治18)は、県知事の許可がなく中止。ついで、神戸間人幼児保育場(明治19年)が開園し、これが翌年私立間人幼稚園になった。以後、兵庫・神戸(明治20年)、頌栄(明治22年)、竜野・博愛(明治23年)幼稚園(これら全て私立)等があいつぎ開園した。私立明石幼稚園(明治25年)、私立播陽幼稚園(同年)も続いた。
 幼稚園教育の開始で、保育者の養成が大きな課題となった。東京女子師範学校内に「幼稚園保姆練習科(明治11年)」、私立では、「神戸頌栄保母伝習所(明治22年)」、が早い時期からでき、後に「奈良女子高等師範学校保母養成科(大正9年)」も開設された。
 幼稚園に関する規定は、明治5年「学制」では「小学校に入る前の端緒」とあるのみで、明治12年「布達」ではじめて「設置・廃止は知事の認可、保育法は文部卿の認可、知事への開申」が必要と定められた。明治23年「小学校令」は「市町村は幼稚園を設置することができる」と明記し、翌年の文部省令は「幼稚園保母は、女子にして小学校教員たるべき資格を有する者、または府県知事の免許を得たる者」とした。
 1892年(明治25)東京女子師範学校附属幼稚園は、貧困家庭の子どもを対象とした保育施設のモデルを設けた。これは日本の「保育所のルーツ」とみることができる。あたかも同年、二見出身の医師で篤志家の横河震八郎は「子ども海浜院」という幼児保育施設を創設した。その後、「子ども海浜院」の精神は、震八郎の娘である大井英(横河英)に引き継がれた。児童福祉施設横河保育園「子どものお里」保育所は、二見の横河別邸(洋館2階建)と庭園を使用して運営された(大正11年〜昭和17年頃)。収容されたのは、親と死別、病弱な親、共働き、出征中家庭等、様々な事情の子どもだった(「子どものお里」は次回に紹介する)。
 この頃、各地に貧困家庭、出征軍人、婦人労働者の家庭等を対象とした保育施設が設けられた。





[写真「子どものお里」]  (播磨学研究所編『ふるさと明石・写真帳』より)


幼稚園のあゆみ(15) 
明石市幼稚園史概観(後)
 

 前回(14)の略年表(前回掲載をご参照下さい)に従って話をすすめたいと思います。
近代日本の教育制度と、初等・中等・高等教育諸学校は、明治末から大正期にほぼその形ができあがった。以後、戦前期を通じ日本の教育制度は安定した。1926年(大正15)、就学前教育の「幼稚園令」と「施行規則」が交付され、幼小中高大の諸学校令がすべて出揃った。この時、従来の保育項目「遊戯・唱歌・談話・手技」に、あらたに「観察」が加えられた。明石女子師範附属幼稚園及川平治の「分団式動的学習」が反映したと思われる。「為すこと」すなわち、自発的な活動(観察)を重視する「児童中心主義」の大正新教育運動は、幼稚園教育(保育内容)を更新し新たな息吹を吹き込んだ。

 従前、園児の年齢制限は三歳以上であった。幼稚園令は「特別の事情ある場合においては、文部大臣の定める所により3歳未満の幼児を入園せしむることを得」と定め、両親が働く家庭に配慮した。さらに文部省訓令は保育時間の延長を認めた。これは幼稚園に「保育所」的な役割を持たせた。子守・子育て支援は課題であった。大正から昭和戦前期の幼稚園は、おもに中流以上の家庭に限られ、就学前児童の家庭教育を補う保育機関だった。戦争の時代、幼稚園教育の充実、拡大は期待できなかった。昭和2年、旧明石市内の各小学校で「土曜幼稚園」が開設された。目的は、入学前の集団生活の経験で1年生児童がスムーズに小学校に適応することだった。「土曜幼稚園」は戦時中に一時中断、戦後復活し併設幼稚園開設まで継続された。

 昭和22年「学校教育法」が成立、戦後の幼・小・中・高・大(6・3・3・4)制の教育体系が確立した。幼稚園が学校教育(教育機関)と位置づけられ、保母の名称は教諭と改められた。資格は大学に2年以上在学し、専門科目を履修した幼稚園教諭免許状の取得者に限られた。

 明治時代創設期からの明石女子師範附属、市立播陽、町立二見、私立錦江の各幼稚園に加えて、市内に戦後あらたな公立幼稚園が設置された。昭和24年の江井ヶ島・錦浦幼稚園を皮切りに、順次市内各小学校に幼稚園が併設された。昭和25年、明石市の幼稚園児数は県下最高水準に達し、昭和40年代に2年(4歳児)保育が拡大、昭和45年に市内全ての幼稚園で2年保育が実施された。




幼稚園のあゆみ(14) 
明石市幼稚園史概観(前)
 

 これまで明治時代を中心にみてきたが、ここで昭和40年代まで明石市域の幼稚園の歩みを概観しておこう。以下はその概略年表である。








幼稚園のあゆみ(13) 
私立二見幼稚園
 

 1912年(明治45)明石旧城下(女子師範附属と私立幡陽)以外で初めて、私立二見幼稚園が誕生した。二見村は当時加古郡に属した。「二見民衆港」が幕末1858年(安政5)に完成した。それ以後、二見港は加古郡、明石郡、美嚢郡を後背地に、近代東播磨の重要な港湾として発展し、街は大いに栄えた。明治9年の二見の人口は3707人、明治38年は4682人に増加した。二見港と街の発展は地域の幼稚園設置の機運を盛り上げた。
 1907年(明治40)小学校義務教育が6年に延長された。これは日本の教育史上で画期的な意味を持った。この頃、全国小学校就学率は90%を超えた。日露戦後の不況、政府の「地方改良運動」、つまり徴税強化と国民道徳教育強化の厳しい状況下だった。この時期から大正期にかけ、都市部を中心に「進学熱」が高まり、中等教育、高等教育、そして幼稚園教育が拡大していった。全国的に就学前教育、つまり幼稚園保育の要請が高まった。
 しかし、国家財政は逼迫し、小学校の整備、次いで中学校の増設を優先し、国公立幼稚園を設置する余裕がなかった。そこで、都市部では私立幼稚園が大いに増加した。全国の幼稚園数は、1909年(明治42)に国公立と私立が逆転した(表参照)。明治45年は国公立が224で私立が309、大正5年は国公立が243で私立が420園を超えた。
 明治期から大正期にかけて、港湾都市二見はますます発展した。1907年(明治40)2月、二見家庭教育会が発足した。地域の教育、小学校や幼稚園を整備し支援する団体だ。翌41年4月、二見尋常高等小学校(尋常科が4年から6年に延長、その上に修業年限2年の高等科を設置)ができた。小学校の就学年限延長とともに、幼稚園開設の要望が高まった。明治45年4月、私立二見幼稚園は地域社会の力、有志の尽力で開園した。地域の子どもを地域で教育(保育)する「村の幼稚園」だ。もとより実態は「公設公営」の二見幼稚園は、1920年(大正9)4月に村立二見幼稚園、1927年(昭和2)1月、二見村の町制施行により町立二見幼稚園となった。




[ 表 幼稚園数の推移(国公立・私立別) 『学制百年史』 338頁 ]





幼稚園のあゆみ(12) 
先生の服装は「紋付袴」と「靴」?
 

  明治の幼稚園、教室の先生や生徒の姿はどうか?興味のあるところだ。史料の関係で、現神戸市内の幼稚園の様子(兵庫県私立幼稚園連合会編『幼稚園教育90周年記念兵私幼』から)をみよう。
     「先生の服装は和服に袴で出ていました。中にはハイカラな人は靴をはいていたが、私らは
    麻裏をはいていました。(中略)机の並べ方は昔の学校風に同じ方向に向いて並べていまし
    た。1日の日課も時間割をして、その割合などもきちんと決まっていました。絵、唱歌、談話、手
    技、恩物(20種類)という風に。(中略)
     明治、大正、昭和の大東亜戦争までは、教育勅語を奉戴するのが幼稚園保育でした。忠孝
    一本の道や義勇奉公の精神等を当時の遊戯、唱歌、談話、手技等の保育項目に織り込んだ
    のでありました。
     唱歌、遊戯のなかにこんなのがありました。
       1 雀雀雀雀は何というて鳴くか、  
         天子さまには忠忠忠、皇后様には忠忠忠
       2 烏烏烏烏は何というて鳴くか、  
         お父さまには孝孝孝、お母さまには孝孝孝
    佳節には必ず式を挙行し、「君が代」の合唱はもちろん、勅語奉読、報答歌を欠くことはありま
    せん。(後略)」
 明治時代、幼稚園の先生はお袖の着物と袴を着用して保育にあたった。幼稚園内には天照大神の斎場をつくり、園児と礼拝することが日課だった。前回(11)でみたように、幼稚園の保育は「幼稚園規則」の「保育時間表」に準じ、時間割に従って計画的に実施されていた。唱歌の時には「天子さまには忠忠忠、皇后様には忠忠忠、お父さまには孝孝孝、お母さまには孝孝孝」と歌った。「三つ子の魂百まで」ということか。皇国日本の教育勅語奉戴、儒教精神「仁義忠孝」、皇祖天照大神礼拝、意味までは深く理解できなくも、子どもたちは慣れ親しんでいった。





     
幼稚園のあゆみ(11) 
明治の「保育日誌」(明治42年)
 

 ある日の幼稚園の保育の様子をみよう。入園日直後の4月始め(明治42年)、「付添人も大いに減じて四五人」となり、2ノ組の子ども(年少組)の様子も落ち着いてきた。
    4月5日(月)
 げに暖かき今日、遊庭にてよく遊ぶに汗を出す程なり。新入児は比較的なれ、付添人も大いに減じて四五人なり。(中略)第3時開誘室出入りの稽古をせしが、2ノ組のあの卓にては少々狭く十分にさせること能わざりき。色紙を与ふるに随意となしたが、随分色々の色紙請求したりき。1ノ組の午後の積み木はよく玩びたり。
    6月5日(土)
  第1時 遊戯室にて両組共に会集、はなし、遊戯などありたり。 
  第2時 1ノ組(年長)はあやめのはり紙をなし、2ノ組(年少)は遊戯室にて生駒教生の遊戯の
       批評保育ありたり。
  第3時 1ノ組(年少)は開誘室にて山田教生の談話批評保育ありたり。2ノ組(年少)は桃太郎の
       談話をなす。其時保育の方法悪しき為、3,4の幼児は1ノ組の談話を妨げたりなどしたり。
       (「明石女子師範学校附属幼稚園保育日誌」『兵庫県幼稚園史』)
 6月のある日、年長組・年少組のそれぞれで実習生の批評保育が行われた。年少組の園児が騒ぎ、年長組の批評保育の邪魔となった。附属幼稚園は定められた「幼稚園規則」に従って保育を実施したが、同時にそれは女子師範生徒の実習保育でもあった。
 
「保育時間表」 第一ノ組 小児満五年以上六年未満

  三十分 三十分 四十五分 四十五分 一時半
案内集会 博物修身等ノ話 形体置キ方 図画及紙片組ミ方 遊技
計数(一ヨリ百ニ至ル) 形体積ミ方 針画 遊技
木箸細工(文字及数字) 剪紙及同貼付 歴史上ノ話 遊技
唱歌 形体置キ方 畳紙 遊技
木箸細工(器物ノ形体) 形体積ミ方 織紙 遊技
木片組ミ方及粘土細工 環置キ方 縫画 遊技

(「東京女子師範学校付属幼稚園規則」『学制百年史』201頁より)

 


 
幼稚園のあゆみ(10) 
出前授業 (「天幕子守教育」)
 

 明治40(1907)年10月、附属小学校主事として及川平治が着任した(明治45年からは幼稚園主事を兼ね幼稚園主任は廃された)。この年、及川は「天幕子守教育」を始めた。
当時町内の不就学児童中に子守の少なからざるを認めて、如何にもして彼らに人の道を教え己の姓名位は書き得るに至らしめたいと考え子守教育を企劃し、彼等を幼稚園に誘い教育せんとした、然し多く集まらなかった、是に於いて種々考案の結果、天幕子守教育と名づけて、出張教授を施すこととし、路傍に天幕を張り子守の教育を開始した。即ち付属校訓導保姆並に教生、時には藤堂校長も加えて午後2時から或は鍛冶屋町の光明寺に、或は明石神社に、或は中崎遊園地に、或は原野に、或は路傍にと町内各所に出張し各教育場では太鼓を鳴らし笛を吹いて興味を加え、蓄音機、玩具等を用いて好奇心を惹起して教育を施した、子守以外の観者も意外に多くその数百数十名にも上った、是を以て社会教育の好機となし、種々の修身談を試み、教育場には学校の備品たる地理歴史の掛図を持ち出して樹陰に掲げ理科機器を陳列するなどして一般人の観覧に供した。(『回顧三十年』)
「天幕子守教育」は町内の不就学児童に教育機会を与えることを企図した。それは、町内の社寺の境内、空き地、道端において、不就学児童のみではなく地域住民の誰でも無差別に与えられた教育の機会だった。「己の姓名位は書き得るに至らしめたい」だけに止まらず、「地理歴史の掛図」や「理科機器」までを使って、また「本校生も加わって」余興に興じたりした。「これによつて無学文盲の子守が片仮名で立派に手紙が書ける」ようになったという。
 明治43年から、「天幕子守教育」は幼稚園内での事業となり、週3回(火、水、金)午後2時から読方、書方、裁縫、唱歌を行った。その後児童就学率の向上により廃止された。

                              
                           



幼稚園のあゆみ(9) 
母の会、女中の会、老人会
 

 戦後日本の学校は、アメリカからPTAをとりいれた。近頃ではこのPTAがPTCAと変わってきた。P(親・家庭)T(教師・学校)に、C(地域社会)が加わった。子どもの教育には地域社会の力が重要だと強調されるようになったからだ。地域の教育力が低下したといわれる昨今のことだから、何か皮肉なものを感じる。

 明治39(1906)年、附属明石幼稚園は家庭との連携協力を強めるために母(女中)の会、老人会を始めた。(因みに、かつて「女中」という語は「女中連」「御女中」などとも使われ「婦人の敬称」として用いられた。)ともかく、この「母の会」の目的は、

  ・幼稚園と家庭の連絡(幼児につき、保姆、父兄との談話)
  ・家庭教育における欠点を補うこと(校長、主事等の幼児教育に対する講話)

の2点であって、毎学期に1回実施、教員の談話(講話)、保護者の談話(懇談)、学校園の参観等の活動を行った。

 同じく「老人会」は、在校生の保護者を含む地域の老人を対象にはじめられた。活動内容は、幼稚園児の遊戯体験や保育見学、小学校(尋常1年生)の授業参観、師範学校・附属小学校の校内見学、講堂での懇談、子育てに関する啓発等であった。あたかも、今日の「オープンスクール」のようだ。家庭、地域との連携のために学校の公開、保護者(祖父母を含む)のPTCA(PTA)活動だったといえる。

 

「母の会」「老人会」の記録
(左:神戸大学教育学部付属幼稚園『創立70周年記念要覧』151頁、右『兵庫県幼稚園史』154頁)

                              
                           



幼稚園のあゆみ(8) 
家庭との連携 (「幼稚園家庭連絡内規」)
 

 明治39(1906)年、附属幼稚園主任赤井勝治郎が着任した。この年、私立明石幼稚園(現錦江幼稚園)が閉園し、園児は附属幼稚園に引き継がれた。引き継いだ園児と保護者を含め、家庭との連携協力を強めるために「幼稚園家庭連絡内規」(『創立70周年記念要覧』)を定めた。

   第1条 幼児保育の効果を完うせんが為めに、幼稚園と家庭の連絡を必要とし、
        本規定によりその連絡をはかる。
   第2条 幼児入園の際には、その幼児に直接関係ある父兄は必ず付き添いて
        出園し、幼稚園上方針を聞き、且つ幼児保育上の参考となるべき事情を
        陳述せしむ。
   第3条 家庭をしてあらかじめ幼児保育の事に関し、幼稚園の意志あるところを
        了解せしめ、以てその事業を助けんが為に母その他の出席を求む。

 同内規によると、幼児入園に際し「幼児の父兄は必ず付き添い、幼稚園上の方針を聞き」保護者個々に指導方針を十分に説明し、保護者から幼児に関して必要な情報提供を受ける(第2条)。「幼稚園の意志あるところを了解せしめ以てその事業を助けんが為に」幼稚園の行事・事業へ出席を求める(第3条)。園と家庭の連携を強め、家庭教育の欠点を補うことを企図した。



創立当初の明石女子師範学校付属幼稚園
(神戸大学教育学部付属幼稚園『創立70周年記念要覧』28頁)

                              
                           



幼稚園のあゆみ(7) 
恵まれた環境 (「付属幼稚園規定」)
 

  明治32(1899)年6月、国は「幼稚園保育及設備規定」を定めた。これ以前は「東京女子師範学校幼稚園規則」を範としていたが、詳細な幼稚園の法的規定を設けた。この規定は明治33年に小学校令施行規則中に加えられ、以後も大綱は変わらず、昭和22年の学校教育法制定まで戦前日本の幼稚園のあり方を規定した。幼稚園の目的は、満3歳から小学校就学前の幼児保育とする。設置基準として、
@保育時数は1日5時間以内、 A保母1人の幼児数40人以内、 B1幼稚園園児数100人以内、 C保育項目は遊戯、唱歌、談話、手技、 D園舎建物は平屋造り、
等の他に園児1人あたりの教室や園庭の面積、教材教具、の基準を定め、加えて「保育の要旨」をも定めた。

  明石女子師範学校附属幼稚園は、開園に際して「幼稚園保育及設備規定」に基づいて「附属幼稚園規定」を定めた(『創立70周年記念要覧』)。
  
  第1条      附属幼稚園は幼児を保育し、本校生徒に実地保育の練習をなさしめ、
         兼ねて家庭教育の欠点を補うものとす。

  付属幼稚園設置は、@幼児の保育、 A女子師範学校生の保育(教育)実習、 B家庭教育の矯正の3点を目的とした。

  国の法的基準「保育の要旨」に対応して「保育の方針」「保育事項」を定めた。目的@「幼児の保育」の根幹は「健全な心身の発達」であり、そのため「外遊園の遊嬉(ママ)、旅行、体格検査」を重視した。教育効果をあげるために当初から園児の保育室、園庭、遊具の整備につとめた。恵まれた環境が幼児教育に不可欠だからだ。園児の生活(「保育事項」)は会集、園芸、旅行、遊嬉、手技、唱歌、観察、整理(日常生活演習)等の活動を中心にすえた。「児童の本能衝動を規定善導し、以て実際の事例によりて、自然に善良行為に誘起せんと」することなどが示された。附属幼稚園での保育実習(目的A)は明治38(1905)年1月から実施された(『回顧三十年』)

                              
                           


幼稚園のあゆみ(6) 
付属幼稚園の開園式 (「保育の方針」)
 

  明治初め、女児就学率は男児に比べ低かったが、明治30年代には男児の就学率に近づいてきた。当時の小学校は男女別学がすすめられ、女子教員養成が急務となり、兵庫県では明治34(1901)年に明石女子師範学校が設置された(『神戸大学教育学部沿革史』)。
 附属幼稚園は、明治37(1904)年9月17日に附属小学校とともに創設された。保母2名、学級数2(年長・年少各25名)で、校長藤堂忠治郎、主事伊賀駒吉郎のもと幼稚園主任(小学校1年担任兼任)は高谷一次で、運営は小学校に併任されていた(『回顧三十年』)。
 附属幼稚園の開園式は明治37(1904)年10月1日午前10時から始まった。藤堂校長、伊賀主事らは「保育の方針」(「明石女子師範学校附属幼稚園保育方針併幼稚園内規」)の説明を行った。示された「保育の方針」の根幹は3点であった(『創立70周年記念要覧』)。
 
  1 幼児をして健全なる身体の発達を遂げしむること。
  2 幼児の心情を涵養し且つ善良なる習慣を得しむること。
  3 以上の2目的を充分に達せしめ、心身の完全なる発達を図り、以て家庭教育を
    補い、併せて完全なる学校教育を受くるに適当ならしめんとす。
 
 幼稚園教育の目的は「健全なる身体の発達」で、学齢前児童の「身体及び精神諸力の自然的発達を助成」することで、幼児期教育は「是非とも重きを身体におく」、「過度の精神の刺激は、完全な発達を妨止(防止)する」。つまり、いたずらに早期教育に走れば「遂に身体上、精神上の不幸を招致」すると戒めた。「善を愛して悪を憎み、美を嗜みて醜を避け」「円満なる感情の育成」するため、作業教育を通して道徳的品性の素地(正確、清潔、従順、正直、親切、友愛、忠孝、忍耐等)を養成することを目指す。出席した父母に、心身の完全な発達、家庭教育を補い、学校教育を受ける準備をすると説明した。
 開園当時の日本は、日露開戦直後だった。附属幼稚園保姆は保育細目作成、軍隊の送迎、祝賀にと時々は神戸まで出かけるなど多忙を極めた。

      

幼稚園のあゆみ(5)
明石には明治時代に4園の幼稚園
 

 明治25年に始まった私立明石幼稚園と私立播陽幼稚園だが、その後明治37年に明
石女子師範附属幼稚園が設置された後、明治39年に明石幼稚園は園児を附属幼稚園に引き継ぎ、一旦閉園となった(昭和6年に錦江幼稚園として再開)。 日露戦争により経済状況が厳しくなる中だった。明治45年に加古郡二見村で、村の公設で幼稚園が開設された。明治末の現明石市域に4園(明石幼稚園は閉園したので3園となる)が開かれた。
 明治末から大正期は、明石の幼稚園数は増加していない。全国的にも公立幼稚園の増加率が鈍るが、私立の幼稚園は増加する。この時期、公立幼稚園の増加率が鈍るのはある事情があった。明治33年、小学校の義務(4年)明確化と授業料廃止が決められた。明治40年、小学校義務年限が6年に延長され、高等小学校の設置もすすめられた。この頃は日露戦争後で不況に苦しんだにもかかわらず、教育費負担が大幅に増加した。日露戦争の出費負担と戦後不況のダブルパンチで地方財政は逼迫した。明治45年の全国の幼稚園数は、私立が309、国公立が224となった。私立幼稚園の増加が全国的に目立った。
 日露戦争の影響下、私立明石幼稚園は明治39年に閉園した。園児は、明治37年創立に設立された明石女子師範学校附属幼稚園に引き継がれた。
 
     【明治時代の明石の幼稚園】
        




幼稚園のあゆみ(4) 教育加熱にブレーキ
 

 明石に幼稚園が誕生した明治20年代は、全国的にまた兵庫県でもなお小学校の不就学が大きな課題であった。いっぽう、早くも一部の人々の間では「教育加熱」がはじまり、「早期教育」に熱を上げるという、教育格差が生じていた。

     「東京女子師範学校幼稚園規則」
    第一条  幼稚園開設ノ趣旨ハ学齢未満ノ小児ヲシテ、天賦ノ知覚ヲ開達シ、
          固有ノ心思ヲ啓発シ身体ノ健全ヲ滋補シ交際ノ情誼ヲ暁知シ善
           良ノ言行ヲ慣熟セシムルニ在リ
     第二条  小児ハ男女ヲ論セス年齢満三年以上満六年以下トス
           但シ時宜ニ由リ満二年以上ノモノハ入園ヲ許シ又満六年以上ニ
           出ツルモノト雖モ猶在園セシムルコトアルヘシ
    第十条  小児保育ノ時間ハ毎日四時トス、 但当分ノ間保育時間ト雖モ
           小児ノ都合ニ由リ退園スルモ妨ケナシトス
    第十一条 小児在園ノ時間ハ六月一日ヨリ九月十五日マテ午前八時ヨリ
              正午十二時ニ至リ、九月十六日ヨリ五月三十一日マテ午前九時
              ヨリ午後第二時ニ至ル

 「幼稚園規則」の第一条で、「学齢未満ノ小児ヲシテ、天賦ノ知覚ヲ開達」させ、幼児期「固有ノ心思ヲ啓発シ身体ノ健全」な発達や、「交際ノ情誼ヲ暁知シ善良ノ言行ヲ」習得するために「男女ヲ論セス年齢満三年以上満六年以下」の子供は、小学校ではなく幼稚園で学ぶことと定めた。早期教育を是としないフレーベルの思想は、「熱くなりやすい」日本人へのブレーキの役割をはたした。それにしても、「幼児の教育は単に学校をもってその初階としてはいけない」「その学齢に達しない前に幼稚園において正当な遊戯をさせて、適当な教養を施すことはたいへん必要」、と説いた『明石新報』の「投書」は卓見である。




幼稚園のあゆみ(3) フレーベル流の幼稚園

 

 明治時代、日本の多くの幼稚園はフレーベル流の幼稚園をモデルにした。ドイツのフレーベルは19世紀中頃(幕末頃)の世界に知られた「幼稚園の創設者」だ。幼児のための学校(Kindergarten)はフレーベルの造語で、日本ではこれを「幼稚園」と翻訳した。フレーベルは幼稚園教育において、遊びや作業を中心にすえ、そのための遊具や花壇や菜園をもつ庭を重視した。また、早期教育に否定的で、遊びの中で幼児の全人教育を目指した。前回(2)の『明石新報』の市民の投書は「学齢に達しない前に幼稚園において正当な遊戯をさせて、適当な教養を施す」ことを重要と考えた。明石の人々はフレーベル流の幼稚園の誕生を望んでいた。

  明治9年(1877)11月16日、日本で最初の幼稚園、東京女子師範学校付属幼稚園が開設された。ついで、翌明治10年(1877)7月、東京女子師範学校幼稚園規則が制定された。幼稚園をつくる場合の基準や設置認可等は、文部省や府知事県令の監督下におかれた。

 私立明石幼稚園(現在の錦江幼稚園)、私立播陽幼稚園(開設当初は原田幼稚園)の創設についても兵庫県知事の認可が必要であった。明治初期の幼稚園の基準や保育内容について、「東京女子師範学校幼稚園規則」を参考にみよう。

  「幼稚園規則」
第一条  幼稚園開設ノ趣旨ハ学齢未満ノ小児ヲシテ、天賦ノ知覚ヲ開達シ、
        固有ノ心思ヲ啓発シ身体ノ健全ヲ滋補シ交際ノ情誼ヲ暁知シ善良ノ
        言行ヲ慣熟セシムルニ在リ

 学齢(満六歳)未満生徒に、「遊び」や「玩具(恩物)」によって、小児の「知覚ヲ開達シ、固有ノ心思ヲ啓発」すること、即ち、遊びの中で心身の健全な発達をめざした。また「交際ノ情誼ヲ暁知シ善良ノ言行ヲ慣熟」させる、つまり、社会性、道徳性、人間性を養うことを企図していた。




幼稚園のあゆみ(2) 熱意と高い識見

 明治25年にはじまった、私立明石幼稚園(現在の錦江幼稚園)、私立播陽幼稚園(当初は原田幼稚園)の創設当時の様子は「明石教育史資料7」に、沿革が記されている。


  私立明石幼稚園(現在の錦江幼稚園)について、


    明治25年2月 明石教会員石田庄三郎、平井英三郎、山岡光太郎の三氏を
              発起人として、明石幼稚保育会を東本町(細工町)の石田氏
             敷地内に設立。明石最初の幼稚園として発足。錦江幼稚園
             の前身となる。
             保育年限 3年   教員 1名   園児数 37名


  私立播陽幼稚園(当初は原田幼稚園)について、


    明治25年    明石相生町で、原田かじ女史が自宅を開放して30名ぐらい
                の園児を集めて、私立播陽幼稚園を創設。


    明治26年    幼稚園の設立認可をとり、大明石町2丁目に移転。


明石町の東西で、東の相生町に原田幼稚園、西の細工町に明石幼稚園と、二つの幼稚園が産声を上げた。当時、明石の人々は幼稚園の創設を強く望み実現した。また、そればかりか、彼らのなかには幼稚園教育に対する高い識見がみられるのである。


 明治22年の『明石新報』に市民の投書(『明石市史』)があった。
    洋食店の開業も市街の面目には入用であるが、幼稚園の設立は、市街教
    育の事業上もっとも必要な事業である。そもそも、幼児の教育は単に学校を
    もってその初階としてはいけないのである。その学齢に達しない前に幼稚園
    において正当な遊戯をさせて、適当な教養を施すことはたいへん必要なこと
    である。



幼稚園のあゆみ(1) 明石初の幼稚園

 生涯学習の時代、人は生涯学び続けるものだ。人は生まれて後、家庭で、その後学校で、さらに社会で、それぞれに学び教育を受けて成長する。中でも幼児期から青年期にかけて、人の学びと教育に関わる学校の役割と責任は重大だ。

 現在、日本の法律(学校教育法)で定める学校は、幼稚園、小学校、中学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校、大学及び高等専門学校がある。これから「学校の歩み」をみていきたい。

 始め、子供は家庭で親に育まれ、後に集団の中で、つまり学校で教育を受ける。多くの場合、最初は幼稚園からはじまる。幼稚園の歩みからみよう。

 明治時代の現明石市域に、私立明石幼稚園(明治25年)、私立播陽幼稚園(同25年)、明石女子師範学校附属幼稚園(同37年)、私立(公設)二見幼稚園(同45年)の四園が開設運営されていた。
 ちなみに、日本最初の幼稚園は東京女子師範学校附属幼稚園(明治9年)で、兵庫県では神戸元町通りの私立間人幼児保育場(明治19年)がいちばん早いとされている。兵庫県、明石市とも、全国的にみて幼稚園の「先進地」であった。


明治・大正期の幼稚園数の推移



『学制百年史』『兵庫県教育史』「明石教育史資料7」より作成




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