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明石市(旧市域)の市制施行は1919(大正8)年11月1日だ。3年後1921(大正11年)私立播陽幼稚園が廃園に至る経過は前回見たとおりである。明石市はこの幼稚園を引き継ぎ、市立幼稚園として運営することにした。前園長の功績に敬意を払い、名称や園舎はそのままで、市立播陽幼稚園とすることに決した。
1922(大正11)年3月5日、「私立幼稚園設置の件」議案が明石市議会に提出された。(『明石市史資料(大正期編)第八集(下)』199頁)
一 本市幼児保育の為め、大明石村字西郭千四百七十一番地ノ一
(元播陽幼稚園跡)に、市立播陽幼稚園を設置せんとす
大正十一年三月五日提出
理由
従来、本市に於ては、県立明石女子師範学校附属幼稚園、及び私立播
陽幼稚園の二園ありしが、今回、播陽幼稚園主病気のため廃園止むなき
に至れり、斯くては幼児保育上支障を来たすを以て、本案を提出する所以
なり
この年3月11日、明石市議会は「私立」播陽幼稚園をもって、「市立」播陽幼稚園とすることを決した。同4月1日に園児120名を2部編成(教室不足のため)にして開園、同4月5日に職員2名、使丁1名を配置した。新園長には内匠ちゑが迎えられた。着任した新園長は、当時の様子を手記に記している(『明石教育資料bV 明石市幼稚園沿革誌』1969、62頁)。
来てみると、二室の間の廊下が、玄関と職員室、保育室の一つは、一枚
板の机に一枚板床机(腰掛けというより床机)、他の一室は遊戯室で、室
の三方に、板がかんで吊ってある。かんをおろせば、腰掛けになる仕掛
けである。ベビーオルガンが一台(これも借りもので、すぐ取り替えされ
た)その他、何物もない。
この後、昭和36年3月の退職の日まで、文字通り「播陽幼稚園の歴史」となる内匠園長の奮闘が始まった。
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